契約外の恋は謎を呼ぶ
その日、朝からなんだか胸騒ぎがしていた。書類に印を押そうとしても、朱肉がにじむ。天気は晴れなのに、僕の心はどんより曇っていた。
事務所のドアが開く音がして、そこに立っていたのはいつもより明らかに緊張している男だった。彼の手には委任状らしき紙と、花束が握られていた。
朝の印鑑はどこかおかしい
「これ、急ぎの会社設立登記でして…」と彼は言った。だがその印鑑、朱肉のつき方がまるで素人だ。まるで誰かが急ごしらえで書類を整えたようだった。
しかも代表者の氏名の欄には、どこか見覚えのある筆跡があった。いや、そうだ。これは以前、遺言書で見た文字にそっくりだ。
依頼人の目線が泳いでいた
話を聞くうちに、依頼人はやたらと目を逸らすようになった。特に「定款に沿って…」という話をしたときだ。彼の表情には明らかな動揺があった。
そのくせ、事業内容や目的には妙に詳しい。登記手続きの流れを事前に調べてきたようだが、それにしては「恋愛」や「運命」など、定款に不釣り合いな単語が目立つ。
定款に記載された違和感
「愛と信頼を広める事業」と書かれたその定款に、サトウさんが即座にツッコミを入れた。「これは、宗教法人でもなければ書かない表現です」
まるで、定款がラブレターになっていた。僕の頭の中で、サザエさんのオープニング曲が流れ始める。タラちゃんでもこんな詐称はしない。
サトウさんが気づいた妙な遺言書
「先月のあれと似てませんか?」とサトウさんが過去の遺言書ファイルを開く。そこには、同じ名前の人物が残した遺言が。代表権をある女性に譲る内容だった。
しかもその女性は、今回の定款の中で「業務執行社員」として記載されていた。まさか、死人が恋人に会社を残した?
謄本と恋文の奇妙な一致
会社の登記事項証明書を見てみると、なんと設立目的欄に「二人だけの時間を守るための事業」と記されていた。登記官は何を考えてこれを通したのか。
いや、これ、完全に恋文じゃないか。登記簿がラブストーリーを語ってどうするんだ。
恋人だったはずの元代表者の存在
調査を進めると、登記されていた元代表者はすでに数か月前に死亡していた。死亡届も確認済み。だが彼の恋人は、会社だけは守ろうとしていたらしい。
しかも遺言書には「婚姻予定者」と記されていた。その言葉に、どこか切なさと焦りが滲む。まるで「愛の遺志」だった。
署名のクセに潜む暗号
代表者欄の署名に、奇妙なクセがあった。文字の傾きと点の位置が、あるモールス信号に似ている。サトウさんがスマホで照合すると、「イツモアナタヲ」と出た。
いやいや、推理小説じゃあるまいし。いや、推理小説だった。やれやれ、、、またこんなロマンチックな謎解きか。
「この委任状、過去形ですね」と彼女は言った
サトウさんが委任状を見て指摘する。「この文章、過去形が多いです。まるで、もうその人がいないような…」
それはつまり、故人が生前に書いた可能性があるということ。そして、彼女がそれを今でも有効だと信じていたなら…これは、愛による登記だった。
法務局からの電話が告げたこと
法務局からの折り返し電話が入った。「すでにその登記は抹消されております。遺族からの申出によって。」
つまり、この会社は今や幽霊法人。そして今日の依頼人は、幽霊会社を使って故人の恋人を守ろうとした男。登記の影に、人知れぬ愛情が滲んでいた。
元取締役の隠された秘密
もう一歩踏み込むと、元取締役の過去が明らかになる。彼女は実は故人の実の娘だった。婚姻予定というのは、事業承継上の偽装。
遺言書も定款も、すべては彼女を法的に守るために設計されていた。そう、定款にない恋のかたちは「親子愛」だった。
追い込まれる依頼人の矛盾証言
最後に依頼人が漏らした。「あの人が好きだったんです。だから彼女を守りたくて」
それを聞いて、サトウさんがわずかに表情を崩した。「…登記に想いを乗せるのは、自己責任でお願いします」
サトウさんの仕掛けた最後のひと言
「この会社、実は登記されてなかったみたいですよ」サトウさんが淡々と言う。彼の顔が青ざめた。つまり、全てが未遂だったのだ。
それでも、彼の目には涙が浮かんでいた。登記よりも、気持ちを残したかったのだろう。
真実は公正証書の裏にあった
公証役場に確認すると、公正証書遺言の裏面にこっそり「ありがとう」の文字があった。
それは恋人でも親でもない、ただの依頼人に宛てた感謝の言葉。生きているうちに届かない想いが、紙の上でだけ成立していた。
僕のうっかりが逆転の鍵になった
朱肉のにじみが気になって始まった今回の事件。だがそれがなければ、ここまで深く掘れなかった。
僕の「うっかり」が、登記と愛情の謎を解く鍵になったのだ。やれやれ、、、たまには役に立つこともある。
恋愛は自由契約でも嘘は登記できない
登記は事実だけを書く。でも人の心には、記載できないことの方が多い。
嘘は登記できない。だが想いだけは、どこかに残る。そんなことを考えながら、僕は次の依頼人を迎えるために椅子を立った。