連休中も仕事をしてしまう癖がついていた僕の話

連休中も仕事をしてしまう癖がついていた僕の話

気づけば休みの日もパソコンの前にいる自分

「今日は休みだし、ゆっくり寝て昼から温泉でも行こうか」なんて思いながら目覚ましをかけずに寝た夜。気がつけば、朝8時には起きてコーヒーを淹れ、パソコンの電源を入れていた。たぶんもう癖なんだろう。誰から急かされているわけでもないのに、メールチェック、書類の整理、登記の下調べ…。世の中が休みでも、自分の心のどこかに「置いていかれる不安」が染みついているようで、じっとしていられない。事務員には「ゆっくり休んでくださいね」と言ったくせに、結局一人で事務所に来てるんだから笑ってしまう。

仕事をしていないと不安になる感覚

一度、完全にオフにしようとスマホも電源を切って、Netflixを流してみたことがある。けれど、物語に集中できず、ふと「あの書類、あのままでよかったっけ?」と気になって、ソファから立ち上がってしまった。頭では「休むことも仕事」とわかっていても、体が勝手に動く。そういえば、昔の上司が「手を止めると不安になるのは、仕事に自分を縛ってる証拠だよ」って言っていた。その言葉、いまになってずしんと響く。

周囲が休んでいるときに仕事がはかどる矛盾

実は、連休って意外と仕事が進む。というのも、電話も来ないし、来客もないし、誰からの催促もない。まるで事務所が静寂に包まれて、集中のスイッチが入るような感覚がある。だから「どうせ何も予定がないし、ちょっとだけ…」と、パソコンに向かい、気づいたら3時間くらい過ぎている。おかしいよな、自分の休みを「誰にも邪魔されずに仕事できる貴重な日」と思ってるんだから。

電話が鳴らないから集中できる皮肉

普段は、午前中だけで数件の電話が鳴る。登記の相談や、相続の件、営業電話も含めると、とにかく切れ間がない。それが祝日になると嘘のように静か。電話が鳴らないと、こんなにも落ち着いて一つの案件に向き合えるのかと驚く。だがそれは、喜ぶべきことなのか。休むべき日に、仕事の効率が上がる自分の姿に、なんとも言えない気持ちになる。

土日こそ一番静かなゴールデンタイム

平日は事務員さんもいて、なんだかんだで話しかけられたり、郵便物の対応があったり、集中力が途切れがち。でも土日はその心配がない。言ってみれば、土日こそ「集中作業日」。でもそれって、仕事と私生活の境界線が曖昧になってるってことなんじゃないか…。どこかでブレーキを踏まないと、取り返しのつかない疲れが蓄積しそうで、少し怖い。

仕事を止めた途端に押し寄せる孤独

手を止めた瞬間に訪れるのは、解放感よりも、ぽっかり空いた感覚。誰とも会話をせず、笑うこともなく、黙々と仕事をしていた後の「虚しさ」みたいなもの。とくに夜、ふと時計を見て「もうこんな時間か」と思った時、誰に褒められるでもなく、感謝されるわけでもなく、「俺、なんで今日もこんなに頑張ったんだろう…」と心が静かに沈んでいく。

連休が来るのが少し怖くなっていた

以前は「連休最高!」と思っていた。でも今は、連休が近づくと、なんとなく落ち着かなくなる。予定がなければ孤独が襲ってくるし、仕事を完全に手放すと、不安と虚しさが募る。だからと言って、誰かと出かけたり、旅行をする元気もない。結果、パソコンの前で過ごすしかなくなっている。それがもう、癖になっている。

カレンダーの赤い日がプレッシャーに変わる

本来なら心がウキウキするはずの赤い日。だけど、僕にとっては「空白を埋めないといけない日」になっている。休むという選択肢が、なぜか重たく感じるようになってしまった。「休んでる場合じゃない」「ここで一歩先に進んでおかないと」という強迫観念すらある。こんな状態じゃ、体も心もいつか壊れてしまうんじゃないかと思うことがある。

何もしないことへの罪悪感が抜けない

昼まで寝る、スマホをいじる、昼ごはんをテキトーに済ませる…そんな「普通の休日」を過ごした日は、夜になると強烈な自己嫌悪が襲ってくる。「今日、何もしてない」「誰の役にも立ってない」…そんな気持ちが胸を締めつける。どうして自分はこうも「働かない自分」を責めてしまうのか。たまには何もしなくていい、そう思いたいのに。

結局、事務所に来てしまう癖

カバンに何も入れずに家を出たはずなのに、足は勝手に事務所の方向へ。事務所のドアを開けて、コーヒーを淹れて、パソコンを開いて…。もう完全に体が覚えている。休日の朝なのに、無意識に出勤している自分がいる。これはもう癖というより「依存」なのかもしれない。そう思ってゾッとする瞬間もある。

昔はあれだけ休日を楽しみにしていたのに

学生時代は、休日が待ち遠しかった。とくに野球部の頃は、日曜の試合や仲間との練習が楽しみで、前の晩はワクワクして眠れなかったくらいだ。あの頃の「休日」は、未来への希望に満ちていた。今の休日には、そんな希望はあるだろうか。気づけば、自分で自分を忙しさに追い込んでいる気がする。

元野球部だった頃の「休み」の感覚

朝早くからグラウンドに集まって、泥だらけになって走って、昼にはコンビニでアイスを食べていた。あの頃は、疲れることすら楽しかった。仲間がいて、目指す場所があって、「休み」と「やる気」が両立していた気がする。今はどうだろう?ひとり静かな事務所で、音のない仕事をしている。成長してるんだか、後退してるんだか、よくわからなくなる。

日曜のグラウンドに感じていた開放感

グラウンドの土の匂い、太陽の光、汗のにおい、声を出し合う仲間たち。そのすべてが、「今日も最高の休日だ」と感じさせてくれていた。いま、あんな感覚はどこに行ってしまったのか。開放感とは無縁の生活の中で、ふと、あの頃の自分に会いたくなる。

疲れても楽しかった、あの頃の休日

体はボロボロだったのに、心は満たされていた。それが青春というやつなんだろう。今は、体力はあるのに、心がついてこない。疲れても「やり切った」と思えるような休日を、もう一度取り戻したい。そう思っても、なかなか難しい。だけど諦めたくはない。

今は「仕事が片付くかどうか」がすべて

「今日は登記が一件片付いた」「あの案件の目処が立った」そういう成果がないと、休日を過ごした気がしない。それが果たして、幸せな人生なのかどうかはわからない。でも今は、そうやって日々をやり過ごしている。誰かのためになる仕事であっても、自分が壊れては意味がない。だからこそ、「何もしない勇気」も、必要なのかもしれない。

仕事人間としての誇りと虚しさの狭間

司法書士という仕事には、誇りもある。誰かの人生に関わる、責任ある仕事だ。けれどその分、重さもある。常に何かに追われている感覚。孤独と緊張に囲まれている日々。この道を選んだことに後悔はない。でも、もう少し肩の力を抜いてもいいのかもしれない。

誰かの役に立っているという実感

登記が完了して、依頼者から「ありがとうございました」と言われたとき。相続の相談で「気が楽になりました」と言ってもらえたとき。そういう瞬間は、本当に救われる。仕事って、やっぱり人のためなんだなと実感できる。だけど、それが報酬や成果に結びつかないと、やっぱりどこかで虚しくもなる。

でもふとした瞬間に感じるむなしさ

夜、仕事が終わったあとにコンビニでひとり弁当を買って食べているとき。洗濯機が回る音だけが響く部屋で、ぽつんと座っているとき。「ああ、自分は誰のためにこんなに頑張ってるんだろう」と思う。誇りと引き換えに、いろんなものを置いてきた気がする。

自分の人生はどこに向かっているのか

がむしゃらに働いてきた。気がつけばもう45歳。結婚もしていない。子どももいない。週末に一緒に笑う誰かもいない。このまま突き進んで、果たしてどこに辿り着くんだろう。そんなことを、連休の静かな夕方に考えることがある。

「休む」ことの価値を見失いかけている

休むことは、怠けることじゃない。回復すること、充電すること、そして自分を取り戻すこと。でも、今の僕にはその感覚が希薄になってしまっている。連休中に仕事をする自分を責めはしない。でも、それが癖になっていることには、少し危機感を覚えている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓