笑ってるけど限界が来てるだけかもしれない

笑ってるけど限界が来てるだけかもしれない

笑ってるけど限界が来てるだけかもしれない

限界なのに笑ってしまうのはなぜか

ふと気づくと、心がすり減っているときほど笑っている自分がいる。疲れているはずなのに、笑顔だけは忘れない。いや、忘れられないのかもしれない。誰かに心配されるのが怖くて、あるいは、そういうキャラとして振る舞うことがもはや習慣になっているのか。地方で司法書士をやっていると、常に「ちゃんとしている人」でいなければならないような気がして、感情の揺らぎを見せられない。だから、限界のサインすら笑いに変えてしまう。けれど、それが一番危ないんだと、自分ではちゃんとわかっている。

「大丈夫です」が口ぐせになっている

仕事でもプライベートでも、つい「大丈夫です」と答えてしまう自分がいる。本当はぜんぜん大丈夫じゃない。胃の奥がずっと重たくて、眠りも浅くて、朝起きた瞬間に「あ、今日もしんどいな」と思うのに、口をついて出るのは「大丈夫です」だ。お客さんにも、事務員にも、知り合いにも、なるべく心配かけたくない。頼れる人がいないことに慣れすぎて、人に弱音を吐くタイミングを逃し続けている。そしてその「逃し」自体が、疲れの元凶になっているのかもしれない。

笑うことで自分をごまかす習慣

疲れているとき、笑いがふと出る瞬間がある。それは「楽しいから」ではなく、「笑っておかないと壊れそうだから」出てくる防衛反応だ。司法書士という仕事柄、人と会うときは常に冷静でいなければならない。感情を抑えて、理性的に対応することが求められる。でも、それが積もってくると、感情の逃がし場所がなくなる。そこで出てくるのが、無理やりの笑い。笑っていれば「いつも元気そうですね」と言われるけれど、本当の自分はどんどん置き去りになっていく。

それって本当に「大丈夫」だった日ある?

「大丈夫」という言葉を何百回も使ってきたが、本当に大丈夫だった日は何日あったのかと振り返ってみたことがある。数えられるくらいしかないのに、ずっと「大丈夫」と言い続けてきた。ある意味では、それは自分への呪文だったのかもしれない。「大丈夫」って言っていれば、そのうちそうなるんじゃないかって。でも、現実はそう甘くなかった。笑ってごまかしていたぶんだけ、あとでどっと疲れが押し寄せる。そして、そんな夜はいつもひとりだ。

笑いが出るタイミングが壊れてる

ある夜、コンビニのレジで袋詰めに失敗して、アイスコーヒーを落としてしまった。床に広がるコーヒーを前に、なぜか笑いが止まらなくなった。「もうダメだな俺」と思いながら、レジのお姉さんに「すみません、限界来てました」と冗談めかして謝った。あのときの自分は、笑うことでしかバランスを保てなかったのだと思う。笑ってなきゃ、泣いてしまっていたかもしれない。そういうタイミングで出る笑いは、もはや笑いではなく、SOSだ。

夜中のコンビニで一人ニヤつく理由

夜遅く、仕事帰りに寄ったコンビニで、見慣れたおにぎりを手に取った瞬間、ふと「俺、毎日これ食べてるな」と気づいて笑ってしまった。誰にも見られていないのに、マスクの中で小さく笑う。孤独というものは、気づかないうちに生活に溶け込んでいて、その歪みが思わぬかたちで表に出てくる。一人暮らしで、話し相手がいなくて、会話といえば業務連絡ばかり。そんな日常の中で、笑うしかない瞬間って確かにある。そしてそれは、悲しさと紙一重だ。

誰にも頼れない日々の蓄積

自分一人でやっている感覚がずっとある。司法書士として開業して十数年、もちろん事務員さんには助けられているし、仕事上の連携もある。でも、最終責任は自分。ミスがあればすべて自分の名前で背負うことになる。そういう毎日を続けていると、気を張るのが当たり前になって、気を抜くことを忘れてしまう。そして、抜けた瞬間に「何してんだ俺」と笑ってしまうのだ。笑いが出るというより、出してしまう。そうでもしないと、精神が保たないから。

人に迷惑かけたくないから黙ってるだけ

本当は誰かに「疲れた」「助けてほしい」と言いたい。でも、それを言うと、相手に気を使わせてしまう気がして、結局何も言えない。だからこそ笑ってしまう。笑っている限り、相手も気軽に接してくれるし、こちらも「元気そう」と思ってもらえる。でもそれって、本当に自分にとって優しいことなのか?「迷惑かけたくない」という気持ちが強すぎて、素直になれない。笑いという仮面は便利だけど、ずっとつけていたら、本当の顔を忘れてしまう。

司法書士の現場でもある笑えない笑い

お客さんの前で「大丈夫ですよ」とにこやかに対応していても、内心では「今この人に優しくする余裕なんてないんだけどな」と思っていることがある。もちろんプロとして、感情を出すわけにはいかない。だけど、限界を超えた状態で笑っていると、もうそれは演技に近い。そんな自分がふと鏡に映ったとき、なんだか笑っている顔が怖く見えた。笑顔の仮面をかぶり続けることのしんどさに、ようやく気づき始めているのかもしれない。

相談者の前ではニコニコしてしまう

相続の相談などで、相談者が涙ぐみながら話しているときでも、自分は淡々と、時に柔らかく話を進める。相手が不安にならないように、こちらが動揺しないことが求められるからだ。でも、感情を押し殺して接するうちに、どんどん「自分の感情」が見えなくなっていく。相談者のために笑っているつもりが、気づけばそれが「当たり前」になってしまう。そして、その当たり前が心を削っていくという事実に、なかなか気づけない。

内心では「今日も無理」と思っている

朝の時点で「今日は無理かもしれない」と思いながら、それでも仕事はやってくる。予約は詰まっているし、書類は山積み。だけど、顔は笑っている。それが習慣になっているから。誰かに「疲れてませんか?」と聞かれても「全然ですよー」と返してしまう。それはもう条件反射に近い。でも、本当のところは、限界ギリギリでバランスを取っている。そうやって笑っている姿を見て、「元気そうですね」と言われると、少しだけ虚しさを感じる。

昔はこんな笑い方じゃなかった

高校時代、野球部で仲間とバカ笑いしていたころの笑いは、純粋だった。心から楽しいと感じたときに、自然に出る笑い。あれが「笑う」ということの原点だったのかもしれない。今は違う。笑っているのに、心はどこか乾いている。楽しいから笑うのではなく、笑うことで何かをごまかしている。そう気づいたとき、自分の中で「何か変えなきゃ」と思った。でも、忙しさに流されて、その気持ちもまた忘れていく。笑いの質が変わった。それが今の現実だ。

元野球部だったころの本当の笑い

当時は、負け試合のあとでも笑えていた。仲間と「やらかしたなー」なんて言い合って、笑い飛ばして、また次の練習へ向かう。そういう笑いは、悔しさも情けなさも包み込んでいたけれど、決してごまかしじゃなかった。今の自分がしている笑いは、そうじゃない。ひとりで壁に向かって笑うような、不自然なものだ。仲間もいない。勝ち負けもない。ただ、ひたすら「こなす」毎日。その中で出る笑いは、どうしたって昔とは違ってしまう。

今の笑いは防衛本能かもしれない

忙しさや責任感に押しつぶされそうなとき、体が勝手に笑っていることがある。それはもう、生理現象に近い。笑うことで脳を守っているというか、精神を崩壊から遠ざけているというか。だから、周囲からは「元気そう」と見えても、自分の中では「ギリギリ」が常に続いている。笑っているから安心とは限らない。むしろ、笑っている人ほど危ないときもある。だから、自分が笑っているときこそ、「本当に大丈夫か?」と問いかける必要があるのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓