誰にも頼まれてないのに忙しいふりをする癖
気づけば「忙しいふり」が自然と体に染みついてしまった。誰にも頼まれていないのに、バタバタと書類をめくり、キーボードを無駄に叩き、電話の受話器を耳に当ててみる。実際にはそんなに緊急の案件はないのに、「今忙しいんです」オーラを出さずにはいられない。多分、これは誰かの期待に応えるというより、自分自身の存在意義を保つための儀式みたいなものなのかもしれない。
本当は暇な時間もあるのに気づかれたくない
実を言うと、日中ずっと手を動かしているわけではない。来客がない日や、登記が少ない月はぽっかりと空白の時間ができる。けれど、その「空白」を誰かに見られるのが怖い。暇=稼げてない=仕事ができない、みたいな勝手な連想ゲームが頭を駆け巡ってしまう。だからこそ、暇な時間も忙しいふりをして埋めてしまう。矛盾してるけど、それが日常になっている。
周囲の視線が気になる地方の小さな事務所
地方でひっそり司法書士をやっていると、変に周囲の目が気になってしまう。隣の事務所の人がこっちを見てる気がする、郵便屋さんが「今日は暇そうですね」って思ってるかもしれない、なんて妄想ばかりが膨らむ。誰もそんなに気にしてないとわかってはいるけれど、ついガラス越しにキビキビ動いてしまう。田舎の事務所は「見られている感覚」が強くて、演じることに疲れる。
忙しそうにしていると安心する理由
変な話だけれど、忙しくしていると心が落ち着くことがある。本当に忙しいわけじゃないのに、予定表が埋まっていると安心するし、何かをしている最中だと自分の価値を確認できる気がする。「何もしていない自分」に耐えられないのだと思う。特に誰にも必要とされていないように感じる日は、忙しさを演出してでも、自分の役割を保ちたいと思ってしまう。
サボっていると思われるのが怖い
どうしてそんなに忙しくしているふりをするのか、と問われたら、やっぱり「サボっていると思われたくない」というのが大きい。事務員さんが見てるから、依頼人がふらっと来るかもしれないから、そんな不確かな「誰か」の目を気にして、自分の行動を縛ってしまう。サボるどころか、心はずっと緊張状態。だったら本当に仕事すればいいのに、演出にエネルギーを使ってしまう。
一人事務所に漂う「ちゃんとしてる感」への執着
うちみたいな小さな事務所では、「ちゃんとしてます」感をいかに出すかが妙に大事になってくる。看板も、名刺も、HPの写真も、そして何より日常の姿勢も。その中でも、日中の自分の様子は外から見られる重要な要素だと思ってしまう。別に誰かが評価しているわけではないのに、机に向かって真面目に働く「風景」を、自分で演出している。
机に書類を広げることで感じる安心感
何も書いていない机って、なぜか不安になる。だから、あえて古い書類やパンフレットを広げておく。ときには別に必要ない法令集をページ開いたまま置いたりもする。それだけで「今は大事な案件をやってますよ」という空気が出る気がする。これって学生時代、勉強してないのに教科書だけ机に出していたのと同じ感覚かもしれない。
電話を取らないタイミングさえ演出に思えてくる
かかってきた電話にすぐ出ないのも、「忙しそうにしてる」アピールの一部だ。3コール目くらいに「あっ、ちょうど手を止めました」みたいなテンポで出ると、なんとなく仕事感が演出できる気がしてしまう。でも、それって相手には迷惑な話かもしれない。気づいたら、仕事そのものより「どう見えるか」に神経を使っていることに、ちょっとした罪悪感すら湧いてくる。
実は効率が悪くなっていることへの自覚
「忙しいふり」は一時的な安心感はくれるけれど、実は全体の効率を大きく下げている。必要ない動作を増やし、本質的な判断から逃げていることもある。自分で自分を忙しさの罠に追い込んでいるような、そんな感覚がある。ふと一日を振り返って「何も終わってないな」と気づくと、どっと疲れが出る。
やったふりの仕事は山を崩せない
書類を積み上げたり、メモを増やしたり、「やってます感」を出しても、結局やるべき本丸が片付いていないと仕事は前に進まない。例えば、相続登記の資料を揃えるのが面倒で、書類整理に逃げてしまう。書類整理も大事だけど、逃げ道にしてしまうと、気づけば本当に大事な案件だけがどんどん後ろに回ってしまう。そして、忙しいふりの山だけが高くなる。
本当に必要な仕事から逃げてしまう瞬間
正直、苦手な案件や精神的に重い依頼は、つい後回しにしたくなる。それを隠すために、別の作業を必死にやっているように見せかけてしまう。でも、それはただの逃避にすぎない。逃げれば逃げるほど、心の中の罪悪感と疲労感が溜まっていく。「逃げの忙しさ」が、自分をますます不器用にしている。
事務員さんの視線が唯一の現実チェック
一緒に働いている事務員さんの存在は、演出過剰な自分への貴重なブレーキになっている。彼女の視線はごまかせない。「またやってるな」と思われている気がして、時々はっとする。相手は何も言わないけれど、その無言が一番刺さることもある。
忙しいふりの演出が通じない相手
事務員さんは、長年一緒に働いているだけあって、僕の「忙しいふり」などとっくに見抜いている。電話を切った直後にタイピング音が急に速くなるとか、来客の気配に合わせて急に真顔になるとか、そんな芝居を全部見ている気がして恥ずかしくなる。でも彼女は何も言わない。ただ淡々と仕事をしている。その姿に、自分の滑稽さを感じる。
嘘の忙しさに気づかれている気がする
ある日、事務員さんが「今日は静かですね」と言った。その一言が突き刺さった。忙しいふりが通じていないことを悟った瞬間だった。「はい、まあ…」としか返せなかったけど、内心は赤面していた。自分がやっていたのは“業務”じゃなくて“演技”だったんだなと、なんだか情けなくなった。
「手伝いましょうか?」と言われた時の居心地の悪さ
一度、忙しいふりの最中に「何かお手伝いできることありますか?」と聞かれたことがある。本当は特にないのに「いや、ちょっと今、確認中で…」と苦しい返答をした。その瞬間、役者としての自分が崩れ落ちた感じがした。気を遣わせてしまった罪悪感と、虚勢を張っていた恥ずかしさが同時に襲ってきた。
なぜこんなに虚勢を張ってしまうのか
自分でも理由ははっきりしないけれど、きっと「ちゃんとしてると思われたい」という気持ちが強すぎるのだと思う。独身で、誰かに頼られることも少なく、孤独感を埋めるために“忙しさ”という見栄を張っているのかもしれない。野球部だった頃の根性論が、今は変な方向に働いてしまっているのかもしれない。
昔の野球部魂が仇になっているかもしれない
「とにかく動け」「休むな」「汗をかいてナンボ」――野球部時代に叩き込まれたこの精神が、いまだに染みついている。机に向かって静かに仕事しているだけだと、何か悪いことをしてる気分になる。だから、わざわざ立ったり、紙を取りに行ったり、体を動かしていないと落ち着かない。でも、それって本当に必要な動きじゃないんだよな、とふと我に返る。
人に弱みを見せるのが苦手な性格
昔から、つらくても「大丈夫」と言ってしまう性格だった。弱音を吐いたら、誰かに心配されるのが申し訳ないと思ってしまう。だから、忙しそうにしていることで、無意識に「俺は大丈夫」と言い聞かせているのかもしれない。本当は誰かに「今日はちょっとしんどい」と言えたら、少し楽になるのに。
本音を見せることの怖さと憧れ
「忙しいふり」から抜け出すには、本音を見せる勇気がいる。けれど、それがなかなかできない。心を開くことへの恐れ、自分の弱さを認めることへの抵抗。それでも、たまに「暇な日もあるんですよ」と笑って言える人を見ると、羨ましくなる。そういうふうに、自然体で生きられたらどんなに楽か。
「暇なんです」と言える勇気がほしい
今でも、「暇です」と正直に言うのは怖い。でも、それを言えるようになったら、たぶんもっと肩の力が抜ける気がする。「忙しいふり」をやめた先に、自分らしさや新しい繋がりがあるんじゃないか。そう思いながらも、今日もまた書類をめくるふりをしてしまうのだけれど。
気を張り続ける毎日に疲れてきた
ずっと演技をしていると、心も体も疲れてくる。たまには素直に「今日はゆっくりしてます」と言ってもいいはずだ。それを許せないのは、他でもない自分自身。だけど、少しずつでも、自分の中の「ふり」をほどいていけたら――そんな風に思いながら、この文章を書いている。