はじめに謎めいた電話
その夜、事務所の黒電話が鳴ったのは22時をまわった頃だった。昼間の喧騒とはうってかわって、外は静まり返っていた。こんな時間にかけてくるのは、だいたいロクな話ではない。
受話器を取ると、低く抑えた男の声。「仮処分を急いでお願いしたいのです。とにかく急ぎで…」と。それだけ言うと、相手は名前も名乗らず一方的に通話を切った。
やれやれ、、、と机に肘をつきながらため息をついた。明日も登記が山積みだというのに、仮処分だなんて。
深夜の事務所に鳴る旧式の電話
この事務所は昭和の香りを残した木造の古い建物で、電話もまだダイヤル式。着信音はやけに甲高く耳に残る。こんな時間にかかってくる電話は、事件の始まりの合図だ。
受話器越しに感じたのは、異様な焦りと切羽詰まった空気感。普通の仮処分依頼ではなかった。
直感が、これは一筋縄ではいかないと告げていた。
依頼内容と不可解な点
翌朝届いたファクスには、仮処分の申立書一式が整然と並んでいた。提出先の裁判所名、申立人の氏名、代理人欄。どれも形式的には正しかった。
だが、何かがおかしい。形式が整いすぎているのだ。現場から上がってくるはずの小さな矛盾や書き間違いすら見当たらない。
完璧な書類ほど、裏がある。司法書士の世界では、それはよくあることだ。
なぜか急かす依頼人の態度
仮処分は確かに緊急性が求められる場面も多い。だが、今回の依頼人は異常なほど急かしてくる。裁判所への提出は今日中に、と何度も念を押された。
「事情を教えてくれませんか」と何度聞いても、「お任せしますから」との一点張り。ますます怪しい。
どうも、登記の前に何かを止めようとしているらしい。それは果たして善意か、それとも悪意か。
提出された資料に潜む違和感
資料の中に、対象物件の地番と所有者の情報が含まれていた。登記簿と照合すると、確かに一致する。しかし、所有権移転直前の名義が一つ抜けている。
この一瞬の抜けは、まるでカツオが宿題を忘れたような絶妙なタイミングだ。わざと抜いたのか、あるいは誰かがその記録を消したのか。
サトウさんが、静かにファイルを閉じた。「これは、あえて書かれてないですね。登記が完了した直後に何かがあったかも」と言う。
書式は完璧 だが署名の筆跡が一致しない
筆跡鑑定を頼んだわけではないが、日頃から書類を見慣れている司法書士にはわかる。委任状の署名が、実際の依頼人の字とは微妙に違っていた。
「代筆、、、かもしれませんね」サトウさんの言葉は冷たいが正確だ。人の人生が数行の書類で左右される、それが法の世界だ。
仮処分を使って、誰かを不利に追い込もうとしている。そんな気配が濃厚に漂っていた。
サトウさんの冷静な指摘
事務所の片隅で、サトウさんがパソコンの登記情報を見つめていた。カタカタと軽快な音のあと、ふと口を開いた。
「所有権移転、登記が完了したのが午前10時。その2時間後に仮処分申立てって、おかしくないですか? 登記官と通じてた可能性もあるかも」
まるでルパン三世の次元が撃つ前に風を読むように、サトウさんは法の裏を読む。冷静かつ的確だ。
登記情報の時系列にズレ
ファイルの時系列が一致しない。受理番号の順番、提出時刻、内容照合——全てにズレが生じていた。これは偶然ではない。
誰かが時を操作している。そんな感覚だった。仮処分が狙うのは、物ではなく“事実”そのものなのか。
この違和感が、事件の核心を突く鍵になると感じていた。
仮処分が狙うものとは
通常、仮処分は不動産や金銭を巡って行われる。だが、今回の仮処分は「接近禁止」「交渉禁止」といった人に対する効力を主張していた。
相続を巡って感情がもつれるのはよくある話だ。だがこれは単なる家族争いではない。仮処分という法の盾を使って、誰かを完全に封じ込めようとしている。
まるでキャッツアイの如く、真実を盗むために仕掛けられた罠だった。
裏で動く相続争いの影
依頼人の背景を調べると、資産家の一族であることが分かった。そして最近、父親が急逝していた。遺言書はあったが、内容が揉めるには十分すぎた。
「これは、遺言の争奪戦ですね」サトウさんがそう呟く。あの冷たい声で断言されると、背筋が寒くなる。
そして仮処分は、その争いの布石に過ぎなかった。
やれやれ思わぬトラブル発生
裁判所に提出されたはずの仮処分申立書が、なぜか取り下げられていた。依頼人に連絡を取っても、電話は繋がらない。
「やれやれ、、、こんな時に限って蒸発かよ」私は頭をかきむしった。まるで波平に怒られたカツオのような気分だ。
だが、逃げたことで余計に怪しさが濃くなった。これは単なる依頼のキャンセルではない。証拠隠滅の第一歩だ。
依頼人が姿を消す
訪ねたマンションには誰も住んでいなかった。郵便受けにはチラシが溢れ、電気メーターも動いていない。完全に消えたのだ。
一方、法務局から一通の封書が届く。登記情報に修正が入り、仮処分の効力が失われたとのこと。
消されたのは、仮処分だけではない。関係者の記憶すらも、意図的に塗り替えられているようだった。
司法書士としての直感
私は直感を信じ、土地のある現場へ向かった。車を飛ばして山間の古い屋敷へ。
玄関先に残る靴跡と、門扉に貼られた「告示」。その全てが何かを訴えていた。
「ここで何かが起こった。そしてまだ終わってない」
法の網をすり抜ける偽装登記の手口
屋敷の名義は一時的に法人へ移され、短期間で売買されたように見せかけられていた。そして今は、第三者名義になっていた。
こうすることで相続人の一部を排除し、仮処分をかけさせる——その一連の流れは、プロの仕業だった。
だが、詰めが甘かった。登記情報の中に一つだけ、改ざんしきれない“本当の日付”が残っていた。
夜の対決と真実の証明
夜、再び屋敷に向かうと、そこには依頼人と名乗った男がいた。スーツの裾を汚しながら何かを掘り返していた。
「これで証拠は…」と呟く男の手から、何かを奪い取る。それは、改ざん前の原本登記識別情報だった。
「あんた、何人の人生を踏みにじったか分かってるのか?」そう問い詰めると、男は静かにうつむいた。
封じられた遺言の謎
遺言書は本来、別の封筒に入っていた。依頼人はそれを破り捨てた後、都合のいい文面を再作成していたのだ。
本物の遺言が今になって見つかったことで、仮処分の意図も全て崩れた。
この小さな紙切れが、家族の運命を変えていた。
事件後の静かな午後
事務所でサトウさんが湯を沸かしていた。私はぐったりと椅子に腰かけ、天井を見上げた。
「結局、俺は何やってるんだろうな」とぼやくと、サトウさんは無表情で「司法書士ですから」と一言。
その通りだ。だが、あえて言わせてくれ。「やれやれ、、、本当に骨が折れるよ」
コーヒー片手にぼやくシンドウ
サトウさんが淹れてくれたコーヒーを一口啜る。味は苦い。でも妙に落ち着く。
「また面倒な話が来なきゃいいな」と呟くと、サトウさんが無言で新しい仮処分の書類を机に置いた。
次の事件は、もう始まっているのかもしれない。