プライベートを語れないのは損なのか得なのか
仕事中、ふとした雑談の中で「先生って、休日は何してるんですか?」と聞かれることがある。こういう質問、嫌いじゃないけど得意でもない。正直なところ、特に話すようなこともしていないし、わざわざ言うほどの趣味もない。だから、つい「まぁ、ゆっくりしてますよ」と曖昧に笑ってしまう。相手もそれ以上突っ込んではこないから、話は自然と終わる。でも時々、「このままでいいのかな」とふと自問する瞬間がある。
「休み何してるんですか」と聞かれた瞬間の戸惑い
事務員の子が、お昼の弁当を食べながら「この前の休み、友達と映画行ったんですよ〜」なんて話しているときに、「先生は?」と話を振られることがある。その瞬間、頭の中が一気に白くなる。別に隠してるわけじゃない。ただ、語るほどのことがないし、なにより自分の私生活を人に伝える習慣がない。テレビを観て、コーヒー飲んで、Amazonをぼんやり見てたなんて、つまらなすぎて言えないのだ。だから僕はいつも、笑ってごまかすしかない。
無意識に話題をすり替えてしまう自分がいる
話を振られると、無意識に別の話題に持っていってしまう。「あぁ、そういえば役所の対応遅くなってて困りますね」なんて、仕事寄りの話にすり替えていく。まるで訓練されたかのように、私生活の匂いがする会話から距離を取っている。自分でも気づいている。だけどそれがもう、癖になってしまっている。昔、何気なく話したことをからかわれた経験が尾を引いてるのかもしれない。
雑談の流れを断ち切るのが得意になった弊害
僕はいつのまにか、雑談を上手く切り上げるプロみたいになっていた。でも、それって本当は人とのつながりを自分から断っているようなものじゃないか。相手のことは聞けるのに、自分のことは言わない。そんなやり取りが何度も続くうちに、気づけば誰にも自分のことを知られていない状態になっていた。そして気楽なようで、どこか心細い。語らないことが守ってくれる一方で、距離を作ってしまっているのも事実だ。
語らなさすぎて逆に不自然になっている自覚
自分では「黙っている方が自然」と思っていたけれど、あるときふと「なんで先生って何も言わないんですか?」と聞かれてしまった。笑ってごまかしたが、内心はぐさりと刺さった。誰とも深く話せない自分、いや、話そうとしない自分が、逆に浮いてしまっている。気づかないうちに「壁をつくる人」になっていた。
聞かれなくなることで孤立していく不安
不思議なもので、何度か話をはぐらかすと、相手もそれに慣れてしまう。次第に誰も僕にプライベートな話題を振らなくなった。それは気楽でもあるが、同時に寂しさも感じる。誰かが自分のことを少しでも気にしてくれるって、こんなにもありがたいことだったのかと、失ってから思い知る。語らないことで守っていたのは、実は自分の「孤独」だったのかもしれない。
「話さない人」のレッテルとその生きやすさ
「この人はそういう人」と思われてしまうと、それはそれで扱いが楽になる。仕事の話だけ、必要なことだけ、表面的な関係だけ。それが心地いいと思っていた。でも、それは“深く関わられない安心”である一方で、“誰にも気づかれない不安”でもある。どちらかを選ぶなら、どっちが良かったのだろうか。未だに答えは出ていない。
人に踏み込まれないことが癖になる感覚
人に踏み込まれないようにと意識していたつもりが、気がつけば自分自身が人を遠ざける達人になっていた。これはもう習慣で、心のバリアを張るのが当たり前になっていた。でもそのバリア、いつの間にか自分を閉じ込めていることに気づいた。誰かと本音で話したいと思う夜もある。だけどその思いをどう言葉にすればいいのかわからない。それが今の僕の現実だ。
仕事の顔しか見せていないことへの違和感
司法書士という仕事は、信頼が大事だ。だからこそ、きちんとした印象を持ってもらうことを第一にしてきた。でも、どこかで「人間らしさ」を置いてきた気がする。事務員にも、同業の仲間にも、相談者にも、僕は“ちゃんとした司法書士”としてしか存在していない。果たしてそれでいいのかと、ふと自分に問いかけることがある。
本音を語れないまま信頼を築こうとしていた
表面的な会話だけで信頼を築こうとしていたことに、最近ようやく気づいた。本当は、ちょっとした弱さや、情けない部分にこそ、人は親しみを持つものなのかもしれない。でも、どうしてもそれを出せない。司法書士としての顔を守るあまり、人としての顔が曇っていく。そんな矛盾を抱えている自分が、情けなくもあり、切なくもある。
事務員との距離感にも出てくる壁
長年一緒に働いている事務員とも、結局は仕事の話がほとんどだ。「先生って、本当にプライベート何してるんですか?」と笑って聞かれても、僕は笑ってごまかすしかない。仕事が終われば別々の道を歩く。お互いそれが心地いい距離感だと信じてきたけど、もしかしたら僕が勝手に壁を作っていたのかもしれない。
誰にも話せないまま蓄積していく小さな疲れ
仕事の愚痴も、人生の悩みも、誰にも話せないまま溜め込んできた。別に大きな不満があるわけじゃない。けれど、何となく、毎日がちょっとだけ重たい。誰かと少し話すだけで楽になるかもしれないのに、それができない。そんな自分の不器用さに、たまに疲れてしまう。でも、それでも話せないのだ。
話してみたときに見えた風景
ある日、取引先の人とたまたま同じ喫茶店になって、何となく世間話をする流れになった。そこでぽろっと「最近は家でひたすら庭の草むしりしてますよ」と言ったら、「いいですね、それ。僕もやります」と返ってきた。たったそれだけの会話だったのに、妙に心が軽くなった。そのとき、語ることがこんなにも楽になるんだと知った。
たまたま漏れた一言が会話をつなげた日
その後も何度か、その人とは雑談を交わすようになった。決して深い話ではない。でも、「草むしりどうです?」なんて軽口を叩けるようになっただけで、僕の中のなにかがほぐれた気がした。自分を守るための沈黙が、ほんの少しだけ解けた。その一言は、自分でも気づかないうちに心の鎧をゆるめてくれていたのかもしれない。
自分の話に興味を持ってくれる人の存在
自分の話なんて誰も興味ないだろうと思っていた。でも違った。思った以上に、人は人の話を楽しんで聞いてくれる。内容の面白さよりも、その人が語る姿そのものに価値があるのかもしれない。そう気づいたら、少しずつ、自分のことを話してみようという気持ちになってきた。
隠してきたものの中にあった温度と安心
語らなかった日々の中に、自分でも忘れていた感情があった。それを話すことで、誰かと共感し合える喜びを知った。プライベートを守ることも大事だけど、語ることで得られる安心も確かにある。少しずつでもいい、誰かと自分の「日常」を分け合えるような、そんな距離感を大切にしていきたいと思う。