となりの芝生が青すぎて自分の庭が情けなく見える日

となりの芝生が青すぎて自分の庭が情けなく見える日

他人がうらやましく見える朝の始まり

朝、いつものように事務所の椅子に座ってスマホを開く。SNSを何気なく眺めていたら、同業者の華々しい投稿が目に飛び込んでくる。「本日、テレビ出演してきました!」「新しい事務所、都心にオープンしました!」そんな文字の羅列を見た瞬間、軽く吐き気がする。こっちは、昨日も今日も同じ事務作業と登記書類と格闘してるのに。誰に頼まれたわけでもないのに、なぜか負けた気がして、ため息が出る。朝から、もう疲れている。

SNSで知る他人の成功に心がざわつく

正直に言うと、SNSはあまり得意じゃない。でも事務員に「先生もPRしたほうがいい」と言われてアカウントだけは作ってある。だからつい見てしまう。すると、うまくいってる司法書士が目に入る。講演、セミナー、本の出版。こっちはせいぜい地元の役場とのやりとりと、戸籍の読み解きで一日が終わる。自分の仕事が地味すぎる気がしてくる。でも「地味であること=価値がないこと」じゃないと、何度自分に言い聞かせても、その声は小さすぎる。

投稿を見なければいいのに見てしまう

「見なきゃいいじゃん」と言われることもある。でも、やっぱり気になってしまう。元野球部の性なのか、人の活躍を見ると自分の中の勝負心が刺激される。でも勝負する舞台がない。こっちは泥にまみれているのに、相手はスポットライトを浴びている。そんな構図ばかり頭に浮かんで、気が滅入る。結局、スマホを閉じて机に突っ伏すしかない。

自分も頑張っているのに報われない焦燥感

毎日、手を抜いているわけじゃない。むしろ真面目にコツコツ積み上げてきた。にもかかわらず、誰にも認められていないような気持ちになる。依頼者には感謝されても、社会的な評価にはつながらない。司法書士って、そんな職業なのかもしれない。でも、だからこそ必要とされてるときに応えるのがプロなんだと、頭ではわかっている。それでも、焦りの火種は消えてくれない。

「同業者がテレビに出ていた」と事務員が言う朝

「先生、この前テレビに出てた司法書士さん、知ってます?」と無邪気に話しかけてくる事務員の声が刺さる。もちろん知ってる。SNSでも見かけた。こっちは寝不足で目の下にクマを作って登記の書類を仕上げてるというのに、テレビなんて世界が違いすぎる。でも、そういうのを「ひがみ」とか「負け惜しみ」と言うのだろう。自分が情けなく思えて、返事ができなかった朝だった。

司法書士という肩書きがちっぽけに感じる瞬間

「司法書士です」と名乗ると、相手が「?」という顔をすることがある。そのたびに、何度説明してきたか分からない。登記や相続、債務整理。どれも必要な仕事だけど、一般の人にとっては縁遠いらしい。弁護士や税理士のような知名度はない。肩書きだけで尊敬されることは、たぶんない。そんなとき、自分の存在そのものがちっぽけに思えてしまう。

同じ士業でも弁護士や税理士が目立つ現実

講演会や雑誌の特集を見ても、出てくるのはいつも弁護士や税理士。士業の中でも「花形」と呼ばれるようなポジション。じゃあ司法書士は?せいぜい「地味な実務のプロフェッショナル」。でも、地味だからこそ失敗が許されない。そんなプレッシャーを抱えながらも、スポットライトは当たらない。それがまた、じわじわと心を削ってくる。

比べる必要はないと頭では分かっているけれど

「人は人、自分は自分」。そう唱えて心を守ってきた。でも、現実に差を見せつけられると、そんな言葉はどこかへ吹き飛んでしまう。自分はどうしてここにいるのか、なぜこの道を選んだのか、そんな問いまで頭をよぎる。別に後悔してるわけじゃない。でも、もっと楽になりたかったと思う瞬間はある。

肩書きに価値を見出すのは結局自分自身

ふとしたときに、事務員が「先生の仕事ってかっこいいですよ」と言ってくれたことがある。その一言に救われた。世の中の評価よりも、身近な誰かに頼りにされているという事実。それがある限り、まだやれる。肩書きは飾りじゃない、自分の選んだ道の証。そう思えた日は、少しだけ空が明るかった。

地元の人からの認知度の低さにがっかり

地方だと「司法書士って、何する人?」と聞かれることがまだまだ多い。広告も出していないし、地味にやってるだけだから仕方ないのかもしれない。でも、同じ町に住んでいる人にすら知られていないのは、やっぱり悲しい。まるで存在していないみたいだ。そんな日には、自分の芝生がまるで枯れ草のように見えてしまう。

視点を変えれば見えてくる自分の芝生

一度、仕事帰りに車を停めて空を見上げたことがある。オレンジと藍色のグラデーションが、妙にきれいだった。そんな日常の小さな瞬間に、救われることがある。たとえ注目されなくても、自分の芝生には、自分しか見つけられない花が咲いているかもしれない。そう思えるだけで、もう少しだけやってみようと思えた。

独身だからこそ守れたクライアントとの距離感

家庭を持たないことを、ずっと劣等感に思っていた。でもその分、時間を融通できて、急な依頼にも対応できた。夜遅くでも、休日でも、「ありがとう」と言ってもらえる仕事ができた。家庭があれば難しかったかもしれない。そう思うと、自分の選択も悪くなかったのかもしれない。

青く見える芝生の裏にあるもの

表に見えているのは、ほんの一部。テレビに出てるあの人も、きっと見えないところで苦労している。裏側を知らずに表面だけを見て羨むのは、虚しいことだとわかっている。でも、つい比べてしまう。それが人間なのかもしれない。

目立つ人ほど人知れず苦労している

スポットライトを浴びている人は、それだけ重圧も抱えている。笑顔の裏で泣いているかもしれない。自分が思っている以上に、みんな必死に生きている。それなら自分も、今のまま、自分なりの一歩を積み重ねるしかない。

比べる相手の「その後」を知らないということ

誰かの華やかな投稿は、ほんの一瞬の切り取りにすぎない。その後の苦しみや失敗は、画面には映らない。自分は、自分の物語をすべて知っている。だからこそ、他人と比べること自体が、そもそもフェアじゃないのかもしれない。

自分の庭に水をやるということ

隣の芝生を見てばかりじゃ、こっちの芝生が枯れてしまう。結局、自分の庭を耕すしかない。毎日一滴ずつでも、水をやる。誰にも見られなくても、それでも育てる。そうやって咲いた花が、自分だけの誇りになる日を信じて。

日々の小さな積み重ねが未来の自分を救う

目立たないことに価値がないわけじゃない。むしろ、淡々と積み重ねた日々こそが、いつか自分を助けてくれると信じたい。あの時あきらめなかった、と言える日が来るまで、もう少しだけ踏ん張ってみようと思う。

たった一人でも頼ってくれる人がいるありがたさ

大きな舞台も、注目も、もしかしたら要らないのかもしれない。目の前の誰かが「先生に頼んでよかった」と言ってくれる。その一言が、すべてを支えている。自分の芝生は、自分だけのもの。青く見えなくても、確かに根は張っている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓