今日もコンビニ弁当と誰にも話さない昼休み

今日もコンビニ弁当と誰にも話さない昼休み

昼休みがただの空腹を満たす時間になった日

気づけば昼休みが「空腹を埋めるだけの時間」になっていた。あれこれ悩む余裕もなく、時計の針が12時を指せば無意識に立ち上がり、コンビニへ向かう。何を買うかはすでに決まっていて、頭も使わない。ほんの10分足らずの買い出しルーティン。かつては「今日は何を食べよう」と誰かと話していた記憶もあるが、今は誰とも言葉を交わすこともなく、レジで発せられる「温めますか?」が、唯一の会話になっている。

コンビニへ向かう足取りはいつも同じ

昼になると事務所を出て、近くのコンビニへ向かう。その足取りはまるで機械のように、決まったテンポで淡々としている。かつてはランチを外で食べることもあったし、事務員さんと雑談を交わしながらお弁当を分け合うようなこともあった。でも今は違う。コンビニの冷たい照明と、陳列棚に並ぶ似たような弁当たちを前に、毎日同じ選択肢の中から「いつもの」を手に取る。その繰り返しに、感情はほとんど存在しない。

メニュー選びすら作業になっていた

以前は「今日はちょっと奮発しようかな」とか「新商品が出てる」とか、そんな些細なワクワクがあった気がする。でも今は違う。とりあえず安くて温かければいい。体裁よりもコスパと手軽さ。もう弁当の中身にすら興味が持てなくなってしまった。食事は本来、心を和ませたり、誰かと共有する楽しみがあるはずなのに、それすらも「こなすべき業務の一部」になってしまった気がする。

「温めますか」の一言だけが会話

レジに並んでいると、ふと「今日も誰とも話していないな」と気づく。レジ係の「温めますか?」という問いかけに「はい」と答えるその一瞬だけが、誰かと交わす言葉。皮肉なことに、その声が妙に優しかったりすると、心が揺れてしまう。自分が人との接触に飢えていることを、その時に思い知らされる。司法書士という職業は、思った以上に孤独だ。相談者がいても、誰かに「自分のこと」を話すことはない。

沈黙に包まれた事務所の昼休み

事務所に戻ると、また静寂が広がる。事務員さんは向こうのデスクでそっと食事を始めていて、僕も自席に座ってひとり黙々と弁当を開ける。ラップを剥がす音、電子レンジのチン、箸袋を開くカサッという音だけが、この空間のBGMだ。たった二人しかいないのに、まるで無言がルールになっているかのようなこの空気が、時々とてつもなく重く感じる。

事務員さんの気遣いが余計につらい

事務員さんは悪くない。むしろ気を使ってくれているのがわかる。でも、その気遣いが「話しかけるなオーラ」に見えてしまうこともある。僕が昼ごはん中にふと溜め息をつくと、そっと気配を消すように席を立つ。優しさだとわかっているのに、それが余計に申し訳なくて苦しくなる。本当は少し雑談でもできたらいい。でも、どこから話し始めたらいいのかすら、今は思い出せない。

静かな空間が気まずさを膨らませる

黙って食べること自体は嫌いじゃない。けれど、誰かが隣にいて、気まずい沈黙だけが流れていると、途端にその時間が居心地悪くなる。時計の秒針の音すら気になるような空気の中で、わざと弁当の箸を置く音を大きくしてみたり、飲み物を注ぐタイミングをずらしてみたりする。でも、結局どちらも話し出すことはなく、無言のまま弁当箱が空になる。

会話しようとしても話題が見つからない

「今日は寒いですね」とか「ニュース見ました?」とか、きっかけになりそうな言葉はいくらでもある。でも、そのどれもが妙に不自然に思えて、口に出せない。こんなに簡単な一言が言えなくなるのは、距離感をつかめなくなっている証拠かもしれない。別に仲が悪いわけでもなく、むしろお互いに信頼して仕事をしているはずなのに。気を遣いすぎる関係って、逆に距離ができてしまうのかもしれない。

食事ってこんなに味気ないものだったっけ

食事は生きるために必要な行為だけど、同時に心を癒す大切な時間でもある。そんなこと、昔は考えもしなかった。学生時代は部活のあとに仲間と食べる牛丼が、異常にうまかったし、笑いながら食べることで疲れが吹き飛んだ。でも今、目の前にあるコンビニ弁当は、味すらよくわからない。温かいはずなのに、どこか冷めているように感じる。

昔はもっと楽しく食べていた気がする

高校時代、野球部の仲間と教室の隅でふざけながら食べた弁当。あの頃は、おかずを取り合ったり、ふりかけの話で盛り上がったり、何でもない話題で昼休みが一瞬で終わっていた。それが今はどうだろう。時間は余るほどあるのに、誰とも言葉を交わさず、ただもぐもぐと口を動かすだけ。心が動かない食事って、こんなにもつらいものだったのかと、思い知らされる。

独り身の昼食は心も冷めがち

独身生活が長くなると、食事もひとりが当たり前になる。夕食はまだテレビやYouTubeでも見ながら気を紛らわせるが、昼休みは違う。あまりに日常的で、かえって孤独が際立つ。誰かと一緒に食べるだけで、同じ弁当が美味しく感じるのに。味そのものよりも、共有することに意味があるんだと、改めて気づかされる。そしてそれが、今の自分には欠けている。

こんな昼休みに思い出す元野球部時代

無意識に弁当を食べながら、ふと昔のことを思い出すことがある。泥だらけで走ったグラウンド。バカみたいに暑い夏。怒鳴る監督。ヘトヘトになって食べる昼飯。何もかもが全力で、バカだったけど充実していた。あの頃の昼休みは、ただの休憩じゃなくて、明日への活力だった。今の自分に足りないのは、そういう「誰かと過ごす時間」なのかもしれない。

あの頃は毎日誰かとふざけていた

同じ弁当でも、誰かと並んで食べるだけで味は何倍にもなった。バカ話をして、ツッコミ合って、最後は笑っていた。あんなふうに過ごせる時間なんて、もう二度と来ないのかもしれないけど、どこかでまた、ああいう時間を取り戻したいという気持ちもある。今は仕事に追われてそれどころじゃないけれど、心のどこかでずっと、あの頃を懐かしんでいる。

「仲間」って言葉が今は遠い

司法書士という仕事は、人と接しているようで、本当はずっと孤独だ。誰かの相談に乗っても、自分の悩みを話す場はない。昔は当たり前だった「仲間」という存在が、今では幻想のように感じる。お互いに励まし合ったり、ふざけ合ったりする関係が、いつの間にか消えていた。そんな距離のある日常に、どこか心が乾いていくのを感じる。

仕事に追われると孤独は気づかれずに積もっていく

仕事が忙しいと、孤独にも鈍感になる。朝から電話と書類に追われて、気づいたら夕方なんて日もざらだ。そんな毎日に慣れてしまうと、逆に昼の静けさが不意に刺さってくる。たった15分の沈黙が、ものすごく重たく感じる瞬間がある。誰かとただ、くだらない話でもして笑えたら、それだけで救われるのに。そう思っても、また今日もコンビニへと歩いてしまう。

ひとり事務所の静けさと責任の重さ

独立して事務所を構えたときは、誇らしさもあった。自由にやれる、自分の力で食っていくんだと意気込んでいた。でもその分、全ての責任が自分にのしかかる。トラブルも、クレームも、業務の進捗も、誰かに頼れるわけじゃない。その重さが日々積み重なって、知らず知らずのうちに「誰かと一緒にいる安心感」が恋しくなる。昼休みの沈黙は、そのことをはっきりと思い出させてくる。

弱音を吐く相手もいない午後

「ちょっと聞いてよ」と言える相手がいないというのは、思った以上にこたえる。忙しいだけならまだいい。でも、疲れや寂しさを誰にも吐き出せないまま、ただ蓄積していくのがきつい。事務員さんには迷惑をかけたくないし、友人も家庭がある。そんな中で、昼休みに手にしたコンビニ弁当のぬるさが、妙にリアルに「孤独だよな」と語りかけてくる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓