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ありがとうという言葉に救われたあの日
あれは確か、まだ事務員のサトウさんが入る前だった。雨の降る月曜日、古びた傘を抱えた女性がふらりと事務所を訪ねてきた。「亡くなった夫の名義変更をお願いしたくて……」と、細い声で切り出されたその依頼は、実に単純な相続登記だった。
書類を整え、法務局へ提出し、登記完了証が届くまで約3週間。特にトラブルもなく終わったその案件の最後、彼女が深々と頭を下げて言った一言が今も耳に残っている。
「本当に、ありがとうございました。あなたがいてくれてよかった」
その日からだ。俺は、この仕事の中にある小さな「ありがとう」を探すようになった。
司法書士という仕事の孤独な側面
だが現実は甘くない。基本的に司法書士の仕事は、問題なく終えることが前提で、感謝されることよりも、文句を言われないことが重要だ。終わって当然。ミスは許されない。誉められることはほとんどない。
感謝されることのほうが珍しい現実
「プロなんだから当たり前でしょ」そんな風に言われたこともある。人はうまくいったときには何も言わないが、失敗すれば大きく叫ぶ。仕事というのは、そういうものかもしれない。
事件の始まりは一本の電話から
「兄が父の遺言書を勝手に作った気がするんです」
電話口でそう話す女性の声は冷えていた。依頼主の名はミキ。父親が亡くなり、兄と自分の間で相続の内容が明らかに違っていることに気付いたという。
相続登記をめぐる兄妹の争い
登記申請の内容を確認すると、すでに父の遺産は兄の単独所有となっていた。公正証書ではなく、自筆証書による遺言書。しかも、形式は整っているように見えるが、どこか「作られたような」印象がぬぐえなかった。
小さな違和感が積もるとき
「ねえ、先生、この筆跡、変じゃありません?」
そう言ったのはサトウさんだった。入社してまだ3ヶ月の彼女は、妙に鋭い観察力を持っていた。
遺言書の筆跡が残す「矛盾」
確かに、遺言書の日付部分と本文の筆跡に違和感がある。特に「昭和」の「和」の形が明らかに違うのだ。しかも印影も微妙にズレている。
兄の口癖と妹の沈黙
「うちの父、遺言なんてする人じゃなかった」
ミキのその言葉が決め手だった。証明は難しいが、父の性格を知る者が語る言葉には重みがある。
日付のない思い出と、日付のある偽造
父親の日記を調べると、その日にはすでに入院しており、字もまともに書けない状態だったことがわかった。怪しいのは兄。証明こそ難しいが、不審点が多すぎた。
司法書士の武器は「法」だけじゃない
俺は裁判所に検認を申し立てた。争いになることは避けたかったが、ミキの納得のいかないまま終わらせることもできなかった。
証拠にもならない会話に意味を見出す
「おまえは感情的になりすぎなんだよ」兄のその一言は、傲慢さを象徴していた。
やれやれ、、、なんだってこう、人間は揉めたがるんだろうな。サザエさんの波平だって、たまには穏やかに終わってほしいと思ってるに違いない。
解決は穏やかではなく静かだった
兄が黙認する形で、財産の一部をミキに譲ることで決着した。書類にハンコを押す手が、兄には少し震えていたように見えた。
依頼のない日とサトウさんのひと言
「先生、好きなんですね。人に感謝されること」
「……違うよ。ただ、怒鳴られるより“ありがとう”の方が気分がいいだけさ」
そう言いながら、俺はサトウさんの淹れてくれたコーヒーを一口すすった。今日は温かいうちに飲めた。これだけで十分、いや、もしかすると、それ以上かもしれない。