朝の雨と一本の電話
その日も朝から雨だった。事務所の窓ガラスに流れる水滴をぼんやりと眺めながら、僕はいつものようにカップ麺の残り汁をすする。すると、電話が鳴った。受話器の向こうから聞こえたのは、やや緊張気味の男性の声だった。
「隣の家との境界について揉めてましてね……司法書士さんに見ていただきたくて」
雨の日に限って妙な依頼が来る。それがこの業界のジンクスのようなものだ。
事務所に届いた不可解な依頼
依頼人は近隣で古くから農地を所有しているという中年男性だった。話を聞く限り、境界線について隣家と揉めており、最近その隣人が突然姿を消したらしい。土地の筆界確認書を取り寄せてほしいと言う。
サトウさんがPCの前で冷ややかな視線をこちらに向ける。「また面倒なやつですね」——いつもの塩対応だが、間違っていない。
境界線と失踪。ふたつのキーワードが奇妙に響き合っていた。
現地調査と泥だらけの靴
長靴を履いて現地に赴くと、畑の端に打ち捨てられたような杭があった。その杭には、薄く赤いペンキが塗られている。だが、隣家の敷地との間には明確な境などなかった。
「この辺は戦後の区画整理もいい加減でして」と依頼人は言うが、それにしても歪だ。まるで誰かが意図的に境界を曖昧にしたような印象を受ける。
泥に足を取られながら、僕は草むらの奥に何か白いものが落ちているのを見つけた。
見えない線に潜む違和感
それは、昔の測量図だった。雨に濡れてボロボロになっていたが、「仮境界」と書かれた印がかすかに読み取れた。誰かがわざとここに捨てたようにも見える。
「やれやれ、、、これは厄介だな」僕は呟いた。どこかで聞いた探偵漫画のセリフが頭をよぎる。
調べるべきは境界だけじゃない。人の心の線も、だ。
隣人の失踪と古井戸の噂
隣家の住人は二週間前に突然姿を消していた。近所の噂では、夜中に奇妙な音がしていたとか、庭の古井戸からうめき声が聞こえたとか、まるで夏のサザエさんスペシャルのようなホラーテイストだ。
だが、それを笑い飛ばせるような状況ではなかった。隣家の敷地内は荒れ放題で、窓には中から板が打ちつけられていた。
境界どころの話ではない。そこには人の気配すらなかった。
地域に残る地縛と祟り話
地元の古老に話を聞いたところ、かつてこの土地には山神信仰があり、境界に杭を打つこと自体が「祟りに触れる」と忌み嫌われていたという。どうりで杭が曖昧なはずだ。
こういう昔話に現代のトラブルが絡むと、途端に空気がどんよりしてくる。いや、実際には何も起きていない。ただ、人の恐怖がそう思わせるのだ。
それでも、何かがいる気がしてならなかった。
登記簿の空白と父の署名
法務局で登記簿を確認すると、隣地との境界部分に不自然な「所有者不明地」が現れた。しかもその名義人は依頼人の亡き父になっていた。
「いや、そんなはずは…親父は境なんて気にしてませんでした」依頼人の顔色が変わる。
だが、筆跡を見ると違和感がある。どこかで見たことがあるような、、、あれは、、、
時効取得のからくり
地元で何代も土地を守ってきた家の者が、自分の土地を少しずつ隣接地に侵食させる。それを認めさせる手段が「時効取得」だ。占有期間と善意を装えば、線はじわじわと動く。
だが、ここでは筆界確認書が一枚も存在していない。それ自体が妙だ。
つまり、誰かが“わざと”線を曖昧にした。自分に有利になるように。
亡霊の正体と真実の線
消えた隣人は、土地の「仮登記」に気付き、抗議をしようとしていた。だが、その直後に忽然と姿を消した。そして残された測量図。
僕は事務所に戻り、サトウさんに言った。「あの筆跡、測量士の山根と同じだ。前に地積更正登記で見たやつだ」
彼が裏で仕組んだのだ。測量図の一部を操作して、所有者不明地を依頼人の父の名義に偽造した。
曖昧な土地 境界の闇
結局、土地家屋調査士会にも連絡し、山根は業務停止処分となった。隣人は山根の脅しに屈して身を隠していただけで、無事に発見された。
依頼人はしきりに頭を下げていたが、僕はなんとなく疲れてしまった。真実は明らかになったものの、どこか後味が悪い。
それでも、「線」は引かれた。正しく。そして、誰にも踏みにじられないように。
最後に残された赤い旗
数週間後、僕が再びその土地を訪れると、境界杭の上に赤い旗が立てられていた。それは地元の人たちが「新しい線」に敬意を表して掲げたものだという。
思わず、サトウさんにLINEを送る。「旗が立ってたよ」——すると、短く返信が来た。「ふうん、それで?」
やれやれ、、、どうしてこうもうちの事務所は情緒がないんだろうな。