序章 遺産分割の相談に潜む違和感
八月の暑さがじわりと肌にまとわりつく午後、古びた扇風機の風が事務所内を微かに揺らしていた。机の上に置かれた分厚い封筒には、「遺産分割協議書」と書かれている。依頼人は、遠方からやってきたという中年の女性だった。
彼女の話によると、亡くなった父の遺産分割において、実家の土地と家屋を長男が単独で相続する旨の遺言書が見つかったという。しかし、彼女の表情にはどこか釈然としないものが残っていた。
亡くなった父と疎遠な長男の存在
「兄は十年以上前に家を出て行ったきりで、父とも連絡を取っていなかったはずなんです。」彼女は静かに言った。遺言書の文面は、長男に深い信頼を寄せる内容となっていたが、話を聞く限り、関係は冷え切っていたらしい。
そうなると、遺言書の存在自体に不自然さが漂う。形式は整っており、検認も済んでいるが、なにか引っかかる。私の司法書士としての勘が、小さなほころびを見逃すなとささやいていた。
法定相続分を超える遺言書の謎
内容をよく確認すると、土地と建物はすべて長男へ、現金預金も大半を彼が受け取る形になっていた。遺留分を侵害するほどではないが、露骨な偏りがある。何より、ほかの相続人の同意も取れていないまま協議書が持ち込まれたことが気になった。
「お兄様と、最近連絡は?」と私が尋ねると、「葬儀の日に一度会っただけです」と彼女は言った。妙だ。あまりにも手際が良すぎるのだ、彼の動きが。
現地調査が示す登記簿の歪み
私は事務所に戻ると、登記簿の履歴を精査した。すると、父が亡くなる三年前に家屋について抵当権が一時的に設定されていたことに気づいた。その後、短期間で抹消されていたが、その名義が妙だった。
申請者の代理人として記載されていた司法書士の名前に、見覚えがある。隣町でちょっとした騒動になった、いわくつきの人物だったのだ。
相続登記と不一致な住民票の履歴
住民票の履歴をたどると、父親の住所には五年前から誰も住んでいないはずだった。だが、電気や水道の使用履歴は、なぜか微量ながら動いていた。まるで誰かが、隠れるように住んでいたかのように。
「夜、明かりが点いてたこともあるんですよねえ」と、近所の古老が言った。まさか、と思いながら、私は念のため建物の使用履歴も照会した。すると、あの長男の名前がこっそりと現れる。
固定資産税の支払い履歴が語る過去
市役所で確認すると、ここ数年の固定資産税は、父ではなく長男が支払っていた。名義は父のままなのに、だ。これは完全に裏で動いていた証拠だ。
しかも、その支払いは、父が入院していた時期と重なる。まるで、相続の準備を先回りしていたように見える。私はサトウさんにファイルを投げて言った。「怪しい匂いしかしないな。」
現れた元同居人と空白の五年間
「父の世話をしていた人がいたらしい」と依頼人がぽつりと言った。その人物の名前は古い登記簿の附属書類にあった。元同居人として記録されたその人物は、今は所在不明だった。
私は町の福祉課に連絡を取り、その人物の行方を追った。すると、驚くべき事実が明らかになった。彼は、実は数年前まで家に住み込みでいたのだ。
空き家だったはずの期間に誰かが住んでいた
使用済みの電気料金や郵便物から判断するに、家には誰かがいた。だが、名義人の父親はすでに施設に入っていた。その人物がいた理由はただ一つ、長男の指示で屋敷を「維持」していたのだろう。
目的は明白だった。固定資産の保全、名義人死亡後のスムーズな相続。そして何より、遺言書の偽装。私は嫌な汗をかいた。
近所の住民が語る「夜な夜なの明かり」
「明かりが点いていたのは、亡くなったお父さんじゃないんですか?」私は訪問時に聞かれた。違う。父は施設にいた。点いていたのは、別人がいた証拠だ。
誰かが夜な夜な中に入り、生活していた形跡がある。いや、生活というよりも、見張り、だったのかもしれない。そう考えると、一気に背筋が寒くなった。
サトウさんのひらめきと司法書士の憂鬱
「先生、このサイン、何かおかしいですよ」サトウさんが冷静に言った。確かに、遺言書の署名欄にある筆跡は、登記簿の申請書類にあるそれと微妙に異なっていた。
筆圧、傾き、クセ——これらは個人を特定するに十分な証拠になる。サトウさんはそのわずかな違いを見逃さなかったのだ。やれやれ、、、また彼女に先を越された気分だ。
過去の登記簿記録から読み解く真相の鍵
私たちは過去の申請履歴と筆跡を比較しながら、証拠を積み上げていった。長男は、施設に入っていた父の遺言書を偽装していた可能性が高まった。しかも、彼はその遺言書を元に、土地を自分名義にしようとしていた。
まるで怪盗キッドが他人に化けて宝石を盗むような手口だったが、こちらは法と登記簿の守り手である。黙って見過ごすわけにはいかない。
偽装された遺言と見えない相続人
筆跡鑑定を司法書士協会に依頼し、結果が返ってきた。それは偽造の可能性が非常に高いというものだった。同時に、相続人の一人が実は生きているという新たな事実も明るみに出た。
死亡届は提出されていたが、誤って別人の情報が登録されていたことが判明した。まるでサザエさんのエンディングのように、「家族全員集合」状態で騒がしくなってきた。
署名筆跡が暴いた偽造の疑惑
最終的な決め手となったのは、施設の看護師が保管していた本人直筆のメモだった。それと遺言書の筆跡を見比べれば、一目瞭然。明らかに別人の手によるものだった。
法的手続きに入り、相続登記の差し止めを求める書類を提出した。長男は観念したように、全てを白状した。
元野球部の意地と決め球の一手
ここぞという場面で、一球を見逃さずに決めるのが元野球部の矜持である。私は公証人に協力を仰ぎ、過去の署名記録と照合し、正式な証拠として提出した。
「本当にこんなところで野球が役に立つとはな」と私が呟くと、サトウさんが無表情で「関係ないと思います」と言った。ぐうの音も出ない。
シンドウの粘りが導いた最後の証拠
地味な作業の積み重ねと、周囲の聞き込み。それが最終的に真実へと繋がった。裁判所は遺言書を無効と判断し、相続は法定相続分に基づいて進められることになった。
私は小さくガッツポーズを決めた。背筋がバキバキに痛かったが、勝利の痛みということにしておこう。
サトウさんの冷静なまとめと淡白な労い
事件が終わると、サトウさんはパソコンのキーボードを打ちながら一言、「司法書士の仕事って地味ですね」とつぶやいた。私は返す言葉もなかった。
「でも、先生、最後はちゃんと活躍しましたね」と、画面を見つめたまま言う。ありがとうと言いかけたが、塩対応の壁は高くて厚かった。
登記簿に刻まれた修正と新たな一歩
最終的に正しい登記がなされ、依頼人のもとには感謝の書類が届けられた。「ありがとうございました」と涙ぐんだ声が、少しだけ心に沁みた。
登記簿という無機質な記録の中にも、人の思いや争いが滲む。それを読み解くのが、我々の仕事だ。
日常に戻る事務所と次の事件の予感
「先生、次の相談者です」サトウさんが言う。やれやれ、、、昼飯もまだだというのに、また新しい依頼か。私の胃袋は悲鳴を上げている。
でも、やるしかない。だって、司法書士ってのは、地味だけど、最後にはちゃんと真実に辿り着く職業だから。
エピローグ 記録は語る 真実は逃げない
事件は終わった。だが、登記簿にはすべてが残っている。誰が、何を、いつ、どうしたのか。紙の上の記録は、言葉を発さずとも真実を語る。
そして私はまたその記録をめくり、読み解き、誰かの未来のために働き続けるのだ。今日も、静かに、でも確かに。