筆跡に忍び寄る影
朝一番の違和感
午前8時45分、俺の机に置かれていた分厚い封筒。差出人は「井口カズヒロ」とある。見覚えがある名前だった。去年、相続のことでちょっとしたトラブルを抱えていた依頼人だ。
封筒の中には委任状が一通。だが、開封した瞬間に違和感が走った。まるで誰かが手を震わせながら書いたような、ぎこちない筆跡。井口の書いた文字とは明らかに違った。
俺は鼻をすすりながら椅子に深く座り直した。朝から嫌な予感しかしない日というのは、たいてい的中する。
委任状に震える筆跡
「この筆跡、なんかおかしいですよね」
サトウさんが横から覗き込み、ため息交じりに言った。見た目は委任状の書式通りだが、漢字のクセも署名の流れも、どこか不自然で力が入っていた。まるで誰かが真似して書いたような……いや、真似しようとして失敗している。
サザエさんで言えば、カツオが波平の筆跡を真似して通知表にハンコ押してバレるパターンだ。いかにもな子供だまし。
依頼人の言葉に潜む矛盾
その日の午後、井口本人が事務所に現れた。だが彼は「書いた記憶がない」と言う。手元の委任状を見せると、目を丸くしたあと、渋い顔で黙り込んだ。
「これ……俺の字じゃない。いや、似てるけど、何か変だ」
その一言で、俺の中の警戒レベルが一気に跳ね上がる。誰かが井口の名前で手続きを進めようとしている。しかも、登記の依頼対象は以前揉めた土地だった。
サトウさんの冷静な観察
サトウさんは黙って委任状をスキャンし、モニターに並べて比較を始めた。去年の相続登記時の委任状、そして今回のもの。二つの画像を交互に切り替えると、違いが際立ってくる。
「カタカナの’ロ’の書き方が全然違いますね。前のは右下が払われてるけど、今回のは止まってます」
「なるほどな…観察眼だけでなく、字も見抜くか…」
俺は感心して言ったが、彼女は無表情で「当然です」とだけ返してきた。やれやれ、、、本当に頼れるんだか怖いんだか。
二通目の委任状
奇妙なことに、翌日まったく同じ内容の委任状が別の封筒で届いた。今度は違う住所からだ。だが中身はやはり井口名義。筆跡は前日よりやや丁寧だったが、それでも微妙な違和感があった。
俺は手元の委任状を並べ、唸った。まるで練習帳でも見てるような、改良された筆跡。これは、誰かが少しずつ精度を上げて書いているということか?
まるでキャッツアイが絵画を狙う前に複製して試すように、これは予行演習なのか。
書類の出所を探る
サトウさんが調査をかけてくれた。消印と差出人住所から逆追跡し、どちらも実在しない空き地の番地だった。どうやら投函だけして即逃げたらしい。
俺は郵便局に行って情報提供を求めたが、案の定、個人情報の壁は厚い。ただ、投函時間のログだけは得られた。いずれも深夜2時台。
何かが確実に動いていた。
郵送記録の不自然な空白
管轄局の追跡記録に、1通だけ途中の処理スキャンが抜けていることに気づいた。これはありえない。郵便物は基本的に通過時にスキャンされる。つまり、誰かが内部にアクセスした可能性がある。
郵便局内の関係者、もしくは宅配業者の偽装……犯人はただの偽造者ではなく、かなりの周到さを持った人物だ。
登記完了通知が示す罠
最も不気味だったのは、法務局からの登記完了通知が、こちらの知らないうちに「完了」になっていたことだ。おかしい、こっちはまだ何も申請していない。
サトウさんが即座に調査した結果、なんと第三者の司法書士名義で申請が通っていた。委任状の提出先をすり替えた上、別の司法書士を使って申請したというのか。
つまり俺たちは、あくまで「かませ犬」だったわけだ。
元依頼人の正体
しばらくして、その偽の司法書士が突如登録抹消された。原因は「虚偽登記による業務停止処分」。連絡が取れなくなったという。
サトウさんが冷静に言った。「その司法書士、実在しません。偽名登録と考えられます」
まさか……司法書士まで偽装されたのか?俺たちの業界が、こんなにザルだったとは。
司法書士が仕掛けた逆転劇
このまま黙っているのは性に合わない。俺は偽造された委任状のデータと、法務局の登記データのズレをつなぎ、逆に「筆跡証拠付きの異議申立書」を提出した。
証拠資料として、サトウさんが作成した比較画像を添付。それはまるで名探偵コナンの推理パートのようだった。時に画像一枚が全てを決める。
こうして「虚偽登記無効」の審査が受理され、該当不動産は凍結扱いとなった。
やれやれ、、、時間外の正義
夜10時、事務所の蛍光灯だけがポツンと灯っていた。サトウさんは帰ったが、俺は一人で申立書の控えを眺めていた。
「やれやれ、、、司法書士ってのも、探偵みたいなもんだな」
コーヒーはすっかり冷めていたが、少しだけ誇らしい気持ちになった。
筆跡鑑定という名のカギ
今回の件で、筆跡がどれほど証拠として有力かを痛感した。筆跡鑑定は正式には法的証拠として扱いにくいが、補強証拠としては極めて強い。
俺は次の日、筆跡鑑定士の講習会を申し込んだ。司法書士としてのスキルとは別に、もう一つの武器を手に入れるために。
サトウさんの一言
「先生、まさか今後、筆跡で人を口説こうなんて思ってませんよね?」
俺が申込書を机に置いた途端、サトウさんが言った。思わず口を開けたまま固まってしまった。
「ち、違うよ。そんなんじゃ……!」
「なら結構です。では午後の認証、行ってきます」
彼女はピシャリとドアを閉めた。俺はひとり、申込書を握りしめていた。
委任の影に潜む動機と真実
今回の偽造劇の背後には、井口の異母兄弟がいたことが後に判明した。彼は相続から外れ、土地への執着を募らせた末の犯行だった。
そして委任状に込められた「震え」は、偽造者の焦りと執念の揺らぎだった。
司法書士として、俺はただ一枚の紙を見逃さなかった。それが、たとえ震えていても——。