名義書換依頼の奇妙な違和感
「名義の書換をお願いしたいんです」。事務所に現れた女性は、どこか影のある瞳をしていた。亡くなった夫の不動産を自身の名義にしたいというのはよくある話だ。しかし、彼女の言葉には妙な間があった。
書類は整っていた。印鑑証明も、戸籍の附票も。しかし私は一枚の固定資産税納税通知書に目を留めた。そこに記された住所に、かすかな違和感があったのだ。
依頼人は涙を隠した未亡人
彼女の名は「トモコ」と名乗った。年齢は私より少し若いくらいだろうか。声にかすかな震えが混じるが、涙を見せることはなかった。その表情には、どこか「芝居がかった誠実さ」が漂っていた。
「夫は…突然だったんです」そう言いながら封筒を差し出す。私はそれを受け取りつつ、うしろの席で黙っていたサトウさんと目を合わせた。
登記原因の食い違いに気づくサトウさん
「シンドウさん、ちょっとこれ」サトウさんが小声で差し出した申請書案。そこには“所有権移転登記・原因:相続”とあったが、被相続人の死亡日とされる日付が戸籍のものと数日ずれていた。
「登記原因、ずれてますね。これ、嘘の可能性も」塩対応ながらも抜群の精度だ。私は再びトモコさんの表情をうかがったが、彼女はうつむいたまま、ただ静かに頷いた。
手紙と遺言の狭間で
封筒の中から出てきたのは、たった一枚の手紙だった。日付も署名もある。だが、それは遺言ではなかった。法的には何の効力も持たない「別れの手紙」だった。
「あなたが読んでくれるかわからないけれど」と始まる文面は、明らかに心の整理をつけるためのものであり、資産の名義については一言も触れられていなかった。
封筒に残された旧姓の痕跡
私たちはその封筒に、古い付箋が貼られていたことに気づいた。「田村宛」――依頼人の旧姓だった。つまりこの手紙は、夫が亡くなる前に、別れの意思として書いたものなのだ。
「これ、本当に渡されたんですか?」私が聞くと、彼女はわずかに目を伏せ、「見つけたのは亡くなった後でした」と答えた。
なぜ今さら書き換えを?という疑問
夫婦関係が破綻していた可能性がある。ならば、この名義書換は誰のためのものなのか。サトウさんがぽつりと言った。「これ、もしかして自分の罪を合法に見せかけようとしてません?」
その一言に、私の中で何かが弾けた。やれやれ、、、そういう話なのか。私は椅子の背に深くもたれ、額をさすった。
昔の登記簿から浮かぶ名前
事務所に残された旧い登記簿データを調べると、かつてこの不動産の所有者だったのは、別の女性だった。今は亡き夫の前妻らしい。しかもその登記変更がされたのは、奇妙にも「死亡日」の翌日だった。
「シンドウさん、これ、、、登記官、見落としてるかも」サトウさんが指さしたのは「登記完了日」の欄。確かに、手続きにしてはあまりに早すぎる。あたかも“準備されていた”ように。
サザエさん式家族関係図で見えてきた真相
私はホワイトボードに家系図を描きはじめた。なんだか波平さんとフネさんみたいだが、こうでもしないと頭が混乱する。「この人が最初の妻、次が今の依頼人。で、この物件はずっと元妻名義だったのに、、、」
整理して見えてきたのは、「未登記の贈与」と「遺言の不在」。つまり法的には、依頼人に何の権利もない物件だった。
手紙の中の最後の一文
手紙の末尾には、こう書かれていた。「今までありがとう。これで私たちは、ほんとうに終わりだ」——そこには未練も怒りもなく、淡々とした諦念が滲んでいた。
しかし、その手紙を“遺言”として使おうとするのは、明らかに法を逆手に取った意図的な試みだった。
筆跡と署名の不一致が導くもの
「この筆跡、本人じゃないですね」サトウさんが言った。私も見比べていたが、以前の登記申請書にある署名とまったく異なる。
「……誰かが代筆してる」それが“誰”なのか、もはや答えはひとつしかなかった。
司法書士としての一手
私は登記申請を一旦保留とし、依頼人に追加資料の提出を求めた。内容証明で送付する文面は、限界まで法的な言葉を薄めたが、それでも彼女はもう戻っては来なかった。
結局、登記はされず、物件は相続人不存在として国庫帰属手続きへ回された。
うっかりした過去の登記ミスが鍵になる
ところが、私が過去にミスでスキャン保存していた戸籍の付属資料が、偶然にもすべての証拠を裏付けるものとなった。かつての“うっかり”が、皮肉にも今回の核心を裏付ける一手になったのだ。
「さすがですね」珍しくサトウさんがほめてくれた。けど私は頭をかいた。「いやぁ、ただの運だよ、運」やれやれ、、、まったく。
サトウさんの塩対応と真実の提示
彼女は最後まで冷静だった。「でも、こういうのって結局、愛とか正しさとかじゃなくて“紙の裏付け”なんですよね」そう呟く姿は、どこか哀しかった。
「登記って、人の本音が見えちゃうとき、あるんですね」その言葉に私はうなずいた。
名義の裏にあった本当の別れ
依頼人が残した手紙と、登記申請書。その両方が語っていたのは、ひとつの恋の終焉だった。だが、それは美しくもなく、ただ法と感情の谷間でかすれていく記録だった。
名義とは何か。別れとは何か。私は答えを探すように、書類を静かに閉じた。
名義書換の終着点
誰も得をしない結末だった。それでも、私は今回の判断を間違っていたとは思っていない。登記官としても、司法書士としても、人としても。
それが正義かどうかはわからない。ただ「やるべきことをやった」というだけの話だ。
記録は変わっても残るもの
登記簿は変わる。名義も変わる。しかし、手紙は変わらない。あの手紙に書かれた思いだけは、誰の登記にも記載されることはない。
ただ、それが唯一、彼の「遺志」だったのかもしれない。
それぞれの道を歩む者たち
依頼人がその後どうなったか、私にはわからない。だが、サトウさんは相変わらず塩対応で、私は相変わらず忙しい。やれやれ、、、今日もまた書類の山だ。
それでも、ひとつずつ片付けていく。それが、司法書士という仕事なのだから。