名前を捨てたその日から

名前を捨てたその日から

朝の電話はいつも通りではなかった

名乗らない相談者

朝9時すぎ、事務所の電話が鳴った。「改名について相談したい」とだけ言って、男は名乗らなかった。声は抑揚がなく、まるで何かを隠しているかのように感じられた。

司法書士の直感

電話を切ったあとも、その声が耳から離れなかった。ぼんやりとした口調、改名という言葉、そして相談者の名乗らぬ態度。長年の経験が、これはただの改名ではないと告げていた。

名前のない依頼内容

改名手続きという奇妙な始まり

翌日、彼は事務所にやってきた。スーツ姿だが、どこか所在なげな目をしていた。「戸籍の名前を変更したい」とだけ繰り返し、理由は「家庭の事情」と曖昧に答えた。戸籍を確認しても、目立った異常はなかった。ただし、履歴が少し、不自然だった。

戸籍の履歴に見える空白

改名前の名前に違和感はなかったが、ある期間だけ住民票の移動が不自然だった。通常であれば転居の記録があるべき時期に、何もない空白の数か月が存在していた。その期間、彼はどこにいたのか、なぜその痕跡が消えているのか。

サトウさんの冷静なツッコミ

過去と今の住所が一致しない

「これ、現在の住所と5年前のもの、全然つながりがないですね」サトウさんがファイルを睨みながら、淡々と指摘する。同一人物の履歴とは思えないほど、飛び地のような住所変更が続いていた。

やれやれ、、、一筋縄ではいかない

僕は椅子に深く沈みながら、ため息をついた。やれやれ、、、ただの改名相談かと思っていたが、これは一癖も二癖もあるぞ。面倒な匂いがプンプンする。まるで怪盗キッドが残した謎解きのように。

旧姓を探して

除籍謄本に残る過去の痕跡

旧本籍地から取り寄せた除籍謄本には、別の名前が記されていた。今の氏名とはまるで無関係な名字。しかし、それが戸籍の根本に存在していた。つまり彼は、かつて全く別の名前で生きていたということになる。

ある新聞記事との一致

図書館で古い新聞をめくっていると、サトウさんがふいに呼んだ。「この人、もしかしてあの殺人事件の目撃者じゃありません?」記事には、ある傷害致死事件での重要証人の名前が記されていた。それが彼の旧姓だった。

記録された死亡記事の謎

死んだはずの人と同じ改名先

さらに調べると、同じ改名先の名前で過去に死亡届が提出されていた。つまり、彼が名乗っていた今の名前は、別人――いや、すでに「死んだ人」の名前だったのだ。改名ではなく、なりすまし。それも法的に存在しないはずの人間として。

偽名が生んだもう一つの人生

彼は事件の後、名前を変え、死んだ者として人生をやり直していたのだろう。おそらく、報復や騒動を避けるためだったのかもしれない。ただ、それを法的に正すには、こちらとしても葛藤があった。

法務局での最後の照会

委任状に記された手書きの違和感

提出された委任状の署名には微妙な違和感があった。ひらがなの「た」の跳ね方や、「う」の止め方。何かが違う。サトウさんは、それを見てすぐに「本人が書いてないかも」と言い切った。

別人が書いた可能性

筆跡鑑定までは行わなかったが、彼の筆跡と照らすと明らかに異なる。つまり、誰かが彼のために、あるいは彼になりすまして書いたもの。法的にも心理的にも、彼は「今の名前」に完全にはなっていなかった。

決定的証拠は筆跡と認印

サトウさんの筆跡鑑定的観察

「このハンコ、100均のシャチハタっぽいですね。登録印じゃないです」サトウさんはそう言って、笑わずにこちらを見た。彼女の観察眼には、いつも驚かされる。これはもう一つの証拠となった。

私文書偽造の可能性

役所に相談し、刑事事件にはならぬよう穏便に確認を取った。結果、彼は自ら手続きの一時停止を申し出た。本当の理由を、やはり彼は語らなかった。

正体は昔の新聞沙汰の人物

二つの名前を生きる理由

最終的に彼が語ったのは、「命を守るため」だった。だがそれは言い訳のようにも聞こえたし、切実な真実のようにも感じられた。人はなぜ、名前を変えるのか。それは、ただの手続きではなかった。

逃げた過去と再びの選択

彼は再び姿を消した。新しい名前も、正しい記録も、残さぬまま。ただ一通の白紙の委任状だけが、事務所の机の上に残されていた。

改名の理由は結局語られなかった

沈黙の裏にあった罪悪感

改名の理由は、ついに語られなかった。それが守るべきものなのか、隠すべきものなのか、僕にはわからない。ただ、彼の目に浮かんだわずかな涙が、その全てを物語っていた気がした。

依頼人が残した白紙の委任状

白紙の委任状。それは手続きの終わりではなく、始まりの象徴だった。彼が何を選び、何を捨てたのか、もう確かめる術はない。僕は静かにそれを封筒に入れ、棚の奥にしまった。

終わらない名の物語

司法書士としての複雑な想い

手続きというものは、正しければそれで良いわけではない。人の人生が関わるとき、それは制度ではなく物語になる。その重みに、僕はいつも少しだけ押し潰されそうになる。

サトウさんの一言が刺さる

「名前って、変えたら新しくなると思ってました」サトウさんがつぶやいた。でも、名前を変えても、過去は変わらないのかもしれない――僕はそう思った。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓