朝の漬物と仮処分申請書
朝の事務所には、妙にしょっぱい香りが漂っていた。隣の家のおばあちゃんが作る漬物の匂いが、換気扇の隙間から入り込んできたのだろう。机の上には、昨日の夕方持ち込まれた仮処分申請書が無造作に置かれている。
表面的には整っているが、何かが引っかかる。依頼人は、近所の商店街に長年店を構える古道具たなべの女将だった。八十を超えても目つきは鋭く、言葉数は少ないが、視線ひとつで人を動かす力があった。
「急ぎでお願いしたいんですのよ」と静かに言ったあの一言が、やけに耳に残っていた。
台所に響く漬物石の音
ポトン……ポトン……事務所の外から何度も聞こえてくるその音が、どこか不穏だった。おばあちゃんが漬物樽に漬物石を乗せている音だろうか。いや、それにしては規則的すぎる。むしろあの音は何かを隠している合図のようにも聞こえる。
僕はふと、仮処分の書類に記載された「対象不動産」の欄に目をやる。問題の物件は、そのおばあちゃんが所有する空き家で、今は誰も住んでいないという。にもかかわらず、「差し迫った危険」があるとして、居住権に基づく仮処分を希望している。
空き家に住む者がいるとすれば、それは法律上の住人ではなく、記録にも残らない別の誰かだ。
知恵袋の記憶と古い登記簿
所内のキャビネットから取り出したのは、昭和時代の閉鎖登記簿謄本。まるで遺跡の発掘のような作業だ。古ぼけた紙に記された筆跡が、時間の流れを封じ込めている。
ふと、以前その物件に住んでいたという小林家の名を見つける。あの女将の旧姓も小林だったはずだ。つまり、彼女はただの所有者ではなく、そこに何かを残している可能性が高い。
「やれやれ、、、」思わずため息が出る。登記簿から幽霊を追い出すのは、僕の仕事じゃない。でも、幽霊が遺した契約書ならば、話は別だ。
タンスの奥から出てきた名義変更の謎
女将が差し出してきたのは、タンスの裏から出てきたという古い契約書だった。年代は昭和五十五年。内容は、不動産の贈与契約書だったが、そこには売買の痕跡も混じっていた。加えて、押印が微妙にずれている。
まるで、最初は売買契約として作られたものが、後から贈与契約に書き換えられたかのようだ。素人細工とは思えないが、意図的な改ざんの可能性は捨てきれない。
その筆跡に見覚えがある気がして、僕はぞっとする。
サトウさんの即断とシンドウの迷走
「この契約、文末の言い回しが不自然ですね。典型的な改ざん案件ですよ」事務所に戻ってきたサトウさんが、僕の机の上にあった書類をひと目見てそう言った。相変わらず切れ味のある女だ。
「でも仮処分の要件には適ってるよな?」と僕は聞いてみたが、サトウさんはため息すらつかずに首を横に振った。
「適っていません。それ以前に、そもそもこの物件、現在も誰か住んでます。配達記録が残ってますから」
仮処分の要件がひとつ足りない
仮処分の要件、それは保全の必要性、急迫性、権利の存在だ。確かに女将の言う通り、この物件を巡る何かが起きている。ただ、その権利主張が虚構だったとしたら?
依頼の裏に、過去の相続や契約の矛盾が潜んでいた場合、司法書士の立場でそれを進めてよいのかどうか、葛藤が生まれる。
正直、こういうときほど行政書士になっておけばよかったと思う。なんとなく、責任が軽そうな気がするのだ。
火鉢と猫と仮登記の記憶
その夜、僕は現地調査という名目で、問題の空き家を訪れた。窓越しに見えたのは、火鉢と、その前で丸くなっている白猫。そして、誰かの気配。
その瞬間、僕の背筋は凍った。やはり、この家にはまだ誰かが住んでいる。だがその人物は、登記簿にはいない。仮処分は、それを排除するための道具だったのか?
女将の知恵袋が、法の隙間を突いた可能性が見えてきた。
おばあちゃんの証言と隠された意図
翌日、女将を再び訪ねた。小さな茶卓の上に置かれた急須からは、番茶の香りが漂っていた。彼女は静かに語り出した。
「あの子ね、私の妹の孫なんです。ちょっとした事情があって、籍を抜いているの。だから、あの家にいるってことは、公にはできない。でも、守ってやりたいんですよ」
つまり、仮処分は――彼女なりの知恵であり、愛情の形だったのだ。
記録にない仮処分の存在とは
結局、僕は仮処分の申立書を出さなかった。いや、出せなかった。法律の網目をすり抜けた家族の絆に、司法書士として口を出す理由が見つからなかった。
でも、だからといって見て見ぬふりをしたわけではない。僕は彼女に、成年後見制度を説明し、その子の法的保護の道筋を提案した。
「知恵袋も悪くないけど、法の袋もなかなかのもんですよ」僕がそう言うと、女将は初めて、少しだけ笑った。
納戸の扉と権利書の行方
数日後、女将の家の納戸から、正式な贈与契約書が見つかった。おそらく、以前のは練習用だったのだろう。それをもとに、正規の手続きを進めることになった。
事件というほどのものではなかったかもしれない。でも、知恵と情と法がぶつかり合う場面には、いつだって物語がある。
そして僕はまた、次の依頼に向けて、資料の山に埋もれるのだった。