発言しても誰も気づかないという現実
司法書士としての仕事のなかで、一番堪えるのは「自分の発言が空気みたいに扱われる瞬間」かもしれません。何人かでの会話や会議の中で、僕が口にした提案や意見が、誰にも拾われずそのままスルーされる。少し後に、別の人が同じようなことを言うと「それいいですね」となぜか盛り上がる。この現象、あまりにも何度も起きるので「もしかして俺、存在してないのか」と思ってしまうほど。正直、印鑑より軽い発言力ってどうなのよ、と落ち込むこともしょっちゅうです。
あれ言ったよなという記憶だけが頼り
「これ前に僕、言いましたよね?」と確認したくなる場面は何度もあります。でもそれを言うと、空気がピリつくのが分かるから結局黙ってしまう。発言が無視されても、記録にも残らず、誰の記憶にも留まらない。僕だけが「あれ、確かに言ったんだけどな…」と曖昧な記憶をたどるしかない。結局、自己肯定感が少しずつ削られていくような気がします。思い切って言い返せばいいのに、それができないのがまた情けない。
議事録には載らず記憶にも残らず
先日も、ある役所との打ち合わせで、登記の進め方についてリスクを指摘したんですが、誰も反応せずにスルー。それが数日後の議事録を見ると、僕の発言は一切なし。その代わり、役所の担当者が同じ指摘をしていたという記録が。なんなんでしょう、この切なさ。せめて自分で自分の発言をメモしておけばよかったと思うけど、なんとなく「それって自意識過剰かな」と思ってやらないんです。結果、僕の存在はどこにも残らない。
でも責任だけはちゃっかり回ってくる
不思議なことに、僕の発言は記録にも人の記憶にも残らないのに、何かあったときの責任だけはしっかり回ってくるんです。「いや、あのとき言ってたじゃん」と思っても、それは誰にも通じない。発言してないことになってるから、責任逃れしてるように見られる。そんなときは本当にもう、逃げ出したくなります。声を出したら、存在感がなくなるってどういう仕組みなんだろう。
存在感のある人との決定的な差
発言の重みって、内容よりも「誰が言ったか」が大きいんだなと実感します。僕の事務所でも、たまに他士業の先生や金融機関の人と話す機会がありますが、発言がすっと耳に入る人と、そうでない人がはっきり分かれる。僕はどうも後者のようです。「あの人が言うなら」という信頼感と存在感、何がそんなに違うんでしょうか。声のトーン?話し方?自信?自分にないものを数え始めたらきりがありません。
声の大きさよりタイミングなのか
声が小さいから聞き逃されてるのかと、ある日、少し意識して声を張ってみました。すると、それはそれで「なんか今日はテンション高いですね」と笑われてしまい、居心地が悪くなる。どうやら問題は音量じゃないらしい。よくよく観察すると、発言の「タイミング」が大事だと気づきました。誰かの話に続けて発言すれば耳に残るけれど、空気を読まずに口を開けば、スッと流される。空気を読む力って、実は発言力の一部なんだと思います。
共感される言葉と聞き流される言葉の違い
同じような内容でも、人によって「共感される言葉」と「聞き流される言葉」に分かれる。たとえば「それはリスクがありますね」と僕が言っても、「まあまあ、気にしすぎじゃない?」で終わる。でも同じことを、ちょっと偉い先生が言えば「おお、そういう見方もあるか」となる。これは完全に“立場”と“キャラ”の違いです。司法書士という仕事は地味だし、僕みたいに目立たない性格だと、どうしても埋もれやすい。
地味に痛い透明人間感
「無視された」と思うほど大げさじゃない。でも確実に「存在感がない」と感じる瞬間って、じわじわ効いてきます。自分の意見が通らないとか、発言が軽く扱われるとか、そういうのが積み重なると、自分がこの場にいる意味すら見えなくなってくる。何も言わずにいた方が楽かもしれない、でもそれじゃ余計に透明になっていく。そんなジレンマのなかで、今日もまた言葉を飲み込んでしまう。
スルーされても表情でごまかす日々
発言がスルーされても、表情ひとつ変えずに「うん、まあそうだよね」とうなずく自分。心の中では「いや、それさっき俺が言ったんだけどな」とモヤモヤしながらも、顔では平静を装う。これって、自己防衛なんですよね。気にしてないフリをしないと、自分が壊れてしまう気がする。だから今日も、なんとなく笑ってごまかす。でも、心の中はどんどん澱のように重くなっていきます。
「気にしてないフリ」も地味に疲れる
気にしてないフリを続けるのも、実はけっこう疲れます。誰にも言えない、どこにもぶつけられない小さなストレスが蓄積していく。週末になるとぐったりして、何もする気が起きないのは、こういうところに原因があるのかもしれません。何気ない一言でいいから、「さっきの話、よかったですね」とか「同じ意見です」と言ってもらえるだけで、少し救われるのに。
事務員とのやりとりに救われるとき
そんな中でも、唯一の救いは事務員さんとのやりとりです。彼女は、ちゃんと僕の話を聞いてくれるし、忘れずにメモを取ってくれている。たとえ他の誰かにスルーされても、少なくとも一人は僕の発言を受け止めてくれているという感覚は、思っている以上に大きな支えになります。誰かに理解してもらえるって、それだけで自分の存在が肯定される気がするんですよね。
唯一反応してくれる人がいるという心強さ
忙しいときに「先生、あの件どうしましょうか?」と聞いてくれるだけでも、「あ、俺、生きてるんだな」と実感できる。たった一人でも、ちゃんと話を聞いてくれて、必要としてくれる人がいるというのは、本当に心強い。逆に言えば、彼女がいなかったら、今の僕はもっと潰れてたかもしれません。存在感って、自分で証明するものじゃなく、誰かが気づいてくれることで初めて意味を持つのかもしれません。
それでも発言をやめない理由
ここまで愚痴ばかり書いてきましたが、それでも僕は発言をやめようとは思いません。むしろ、自分の存在を確かめるために、これからも声を出していこうと思っています。例え誰にも届かなくても、誰にも響かなくても、それが僕にとっての“意思表示”であり、“存在証明”だから。司法書士という仕事を続けていくなかで、目立たない声にも意味があると信じたいんです。
自分が黙ったら終わる気がする
黙ってしまったら、本当にいないのと同じになってしまう気がして怖いんです。たとえ空気みたいな存在でも、僕は確かにここにいて、考えて、意見を持っている。たとえ誰にも聞かれなくても、それでも話す。それが今の僕にできる唯一の抵抗かもしれません。存在感がないなら、せめて声だけは残そうと思っています。
何かを変えたいという小さな抵抗
自分の発言に意味があるのか、自問する日々は続きます。でも、だからこそ「誰か一人にでも届けばいい」と思えるようになってきました。今日の僕の声が、明日の誰かのヒントになるかもしれない。そう信じて、小さな声をあげ続ける。それが、司法書士としてだけでなく、一人の人間としての意地でもあるのかもしれません。