はじまりは一本の電話
その日も朝から書類の山に埋もれていた。背中を丸めて登記簿とにらめっこしていたところに、一本の電話が鳴った。
市内の外れにある山林の筆界についての相談だった。依頼人は年配の女性。声の調子から、何かただならぬ空気を感じた。
「どうか、あの土地のことを調べていただけませんか」――それだけを繰り返す女性の声に、どこか懐かしい痛みを覚えた。
境界の主張が食い違う
現地へ向かうと、依頼人の隣にもう一人の男性がいた。彼もその土地に関係しているらしい。だが、両者の言い分はまったく噛み合わなかった。
「こっちまでがウチの土地です」と男性が指すラインと、女性の示す杭の場所には明らかなズレがある。
筆界未定の土地というのは、こうして争いを呼び寄せる。だが、今回はそれだけではない「何か」があった。
筆界未定の土地と依頼人
筆界未定とは言っても、地図上には一応の線が引かれている。ただそれが現地にどう反映されているかは曖昧だ。
女性は「父の代から大切にしてきた土地」だと強調し、「向こうの人が勝手に杭を動かしたのでは」と疑いの目を向ける。
その一方で男性は「昔からこうだった」と言い張る。どちらも確証はない。ただ、その間に漂う微妙な感情の波に気づいた。
古びた地図と途切れた線
古地図を閲覧室で確認した。戦後すぐの地積測量図には、今とは違う筆界線がうっすらと引かれていた。
その線は、ちょうど二人の主張の間を走っていた。しかし、途中でぷつりと途切れている。
「やれやれ、、、まるでサザエさんのオープニングで波平が海に落ちるとこみたいだ」――思わず独り言を漏らす。
現場調査と不在の境界杭
境界杭が埋まっているとされる場所には、ただ雑草が生い茂っていた。棒を突っ込んでも硬いものに当たらない。
代わりに出てきたのは、錆びた缶と、なぜか封筒の破片だった。
それは普通のごみのようにも見えたが、直感が「捨てるな」と言っていた。
隣人との確執と沈黙
依頼人にそれを見せると、一瞬だけ顔が引きつった。だがすぐに「知らない」とだけ言って目を伏せた。
隣人も同様に目をそらした。「昔、うちの父とあの人の父親が揉めてたようだが」とだけ漏らした。
境界というのは線でありながら、人の心の奥底まで割り込むナイフのようなものだと、そのとき感じた。
怪しい遺言書と「未練」の一語
数日後、役所から提出された過去の資料に、手書きの遺言書が紛れ込んでいた。依頼人の父が書いたとされるものだった。
その中に「未練は筆界に残してきた」という謎の一文があった。何のことかは一見して分からない。
だがその文字が、あの封筒の破片に書かれた筆跡と一致していることに気づいた。
手書きの日付が語る矛盾
遺言の日付と実際の亡くなった日付が数日ずれていた。死後に書けるわけがない。
おそらく誰かが日付を書き換えた。あるいは別の手で追加されたのか。
それは、長年放置されてきた「未練」がまだ生きていた証だった。
サトウさんの冷静な指摘
「これ、封筒に香水の匂いが残ってます。女性が書いたものじゃないですか」――
サトウさんは表情一つ変えずに言った。さすが、登記簿より人間の記憶を重んじる女だ。
さらに彼女は、破片を並べて元の形を再現し、その文章の続きを特定した。
筆跡と印影の秘密
そこに書かれていたのは「あなたのことを、まだ境界のようにあいまいに思っています」。
まるで恋文だった。隣人の父と依頼人の母がかつて交際していた事実が、裏から浮上してきた。
「やれやれ、、、土地の線引きより、心の線引きの方が難しい」私は首を掻いた。
昔の分筆と恋文の痕跡
古い登記簿をさらに洗い直すと、昭和の終わりに一度だけ分筆の申し出が出され、途中で撤回されていた記録を見つけた。
そのとき筆界を定めずに終わっていた。その後、再び境界確定がなされることはなかった。
きっと、思い出を形にするのが怖かったのだろう。未練という名のブレーキが、そこにあった。
恋と土地が交差した場所
今は草の茂るだけの空間。その中央に、かすかに色の違う土があった。
誰かが杭を打とうとして、やめた場所。記憶と後悔が交錯する点。
私は静かに、依頼人に向かって「ここに、すべてが埋まっていたんですね」と告げた。
眠る境界と残された想い
依頼人はその場所に花を一輪供えた。そして言った。「もう、争いはやめます」。
それが彼女の決意であり、かつての恋人への手向けだったのかもしれない。
筆界未定とは、単なる線ではない。心の揺らぎの痕跡なのだと、私は思った。
「やれやれ、、、また人の心が絡んでいたか」
登記簿は正確だ。しかし、人の想いまでは記録しきれない。
サザエさんの最終回がないように、未練というのもきっと完結しない。
「サトウさん、コーヒーでも飲むか?」と声をかけたら、「今は仕事中です」と冷たく返された。