静かな朝に舞い込んだ一通の封筒
事務所のポストに無造作に差し込まれた茶封筒。それは封も雑で、宛名には「司法書士 様」とだけ書かれていた。差出人はなく、切手も貼られていない。まるで「投げ込まれた」という表現がぴったりな代物だった。
開封すると、中には折り目のついた古い登記事項証明書が一枚と、「この登記、嘘です。」という走り書きのメモ。嫌な予感が、背中を冷や汗のように伝う。
差出人不明の封筒と旧い地番
その登記簿の地番を見た瞬間、見覚えがあると思った。十年前、まだ事務所を開いたばかりの頃に手がけた案件だ。当時は慣れないながらも懸命にこなしたつもりだったが、こんな手紙が来るということは、何か見落としがあったのだろうか。
ただの悪戯なら良い。けれど、「嘘です」という言葉があまりに直球すぎて、心がざわついた。
サトウさんの鋭い指摘
「この登記、添付された委任状の日付と実際の取引日がズレてますね」とサトウさんは言った。冷静で無駄のない口調に、僕の額にさらにじっとり汗が浮かぶ。「それに、この署名、筆跡が違うように見えます」
やれやれ、、、また厄介な話に巻き込まれそうだ。朝から疲れた。
封印された登記簿の謎
地元の法務局で旧い登記の写しを取り寄せた。そこには確かに僕の事務所印があった。当時の書類も丁寧にファイリングされていて、抜けはない――はずだった。
ところが、肝心の委任状だけがコピーで保管されていた。本来なら原本還付前の写しと記録が残っているはずなのに、それが見当たらない。
昭和の書類と令和の違和感
不思議なのは、原本コピーに写っていた印影が、昭和の登記簿のあるものと酷似していたことだ。つまり、誰かが古い登記から印影を転用して、偽造している可能性がある。
まるで昭和の怪盗が令和に蘇って再犯を企てているかのようだ。ルパンか。いや、もしかしたらキャッツアイか?
見慣れた筆跡に宿る既視感
改めてメモを見直すと、どこかで見たことのある文字だった。丸みのある「す」と、横に大きく広がる「し」。これは、以前僕に登記を依頼してきた、あの男――高田だ。
高田は三年前、謎の失踪を遂げていた。もしかして彼が今さら何かを訴えようとしているのか。
かつての依頼人が残した言葉
古い顧客台帳をめくっていたとき、高田が最後に残した言葉を思い出した。「この登記、本当に大丈夫ですか?」と、何度も念を押していた。
当時は正直、ちょっと鬱陶しいと思っていた。だが今にして思えば、それは彼の精一杯の警鐘だったのかもしれない。
「あの日の登記は嘘だった」
記憶の奥底にある高田の声が蘇る。「真実を知っても、もうどうにもならないかもしれませんけどね」――それは、彼なりの後悔だったのだろう。
逃げたのではなく、巻き込まれて姿を消したのか。やれやれ、、、司法書士は時々、探偵の真似事もしなければならない。
過去を辿るために走る
古い顧客リストを頼りに、高田の元勤務先を訪ねることにした。道すがら、野球部時代を思い出す。あの頃のように、何かを追って全力で走ることがあっただろうか。
年甲斐もなく心臓がバクバクする。けれど、あのときみたいに「ここぞ」という場面には、走らずにはいられないのだ。
かすれた名前と抹消された真実
高田の元勤務先はすでに閉鎖され、跡地は新しい商業ビルに変わっていた。けれど、古い登記簿には彼の名前がはっきり残っていた。転職後に名義変更された土地、その背後にある不可解な流れ。
高田の名が抹消されたタイミングと、例の委任状の日付が一致していた。
法務局での静かな違和感
法務局の担当者がふと漏らした。「この時期、委任状の偽造が立て続けにあってね、調査中なんです」その一言が、僕の背筋をゾクリとさせた。
まさか、僕の案件もその一つだったとは。うっかりどころの話じゃない。
登記官の沈黙の理由
さらに聞くと、当時の担当登記官が異動を機に退職していた。何かを知っていて、表沙汰にしないように辞めたのか――それはわからない。
ただ、彼の押印には、どこか「違和感」があった。書類の形式ではなく、意思の重さの違い。それは司法書士ならではの感覚だった。
やれやれと言いながらも
真相に近づけば近づくほど、自分の無力さを思い知る。それでも一歩一歩、書類を重ねて前に進むしかないのだ。証拠はまだ足りない。
サトウさんに調査を依頼しようとすると、既に彼女は印影の照合を済ませ、疑わしい委任状の出元を突き止めていた。
再調査に動くシンドウ
封筒の中にあった紙から、インクの成分を鑑定してみると、使われていたのは現在では流通していないボールペンだった。つまり、そのメモは数年前のものだ。
高田はずっと前から警告を発していたのだ。そして、ようやくそれを拾う者が現れた。
元野球部の勘が冴えるとき
「これ、決まり手は走塁です」と自分に言い聞かせ、封筒を持って税務署へと走った。土地取引に関わる裏帳簿が見つかれば、一気に決着がつく。
息を切らせながらも、昔のスライディングを思い出す。今こそ、走るときだ。
追いついた証拠の走路
税務署の記録に残されていた裏取引の記録と、封筒のメモが一致した。確かに高田の筆跡だった。そして、取引の中に登記簿と違う金額が記されていた。
これは、明らかに不正な取引だ。証拠は揃った。
帳簿の片隅に残された印影
最後の一手となったのは、帳簿に押された偽造印影。筆圧が浅く、朱肉がにじんでいた。正規の印影ではありえない。
その比較画像を提出し、不正登記の疑いで調査が開始された。
走り出すとき記憶も動き出す
高田の姿は今も見つかっていない。ただ、彼が残した走り書きが事件を動かした。それは間違いなかった。
走ることでしか、見えないことがある。そう思いながら、僕はまた事務所へと戻った。
再び走った先にあった答え
事件は正式に調査に入り、関係者の事情聴取も始まった。僕の役目は、ここで一区切り。けれど、どこかにまだ高田が見ているような気がした。
「やれやれ、、、終わったようで終わってないな」そんな独り言を呟きながら、コーヒーを啜った。
そして依頼者の正体
後日、事務所に再び一通の封筒が届いた。今度は「ありがとう」とだけ書かれていた。それが高田本人かどうかは、永遠にわからない。
ただ一つ確かなのは、僕が再び走る理由が、そこにあったということだ。
シンドウの静かな勝利
事件の全貌は、世間に出ることはなかった。でも、裏でひっそりと誰かを守ったことは事実だ。静かな勝利。派手な喝采もないけれど、僕にはそれで十分だった。
「さて、今日も登記の山か、、、やれやれ」