返事がほしいのは人間だけです
朝イチの沈黙に包まれた事務所
玄関の引き戸を開けると、外のセミの鳴き声が一瞬だけ追いかけてくる。すぐに閉じると、そこは無音の密室だ。タイムカードを押す音が、ひとりきりの出勤を告げる合図になる。「おはようございます」と言ってみたが、もちろん誰もいない。いや、いたとしても返事が返ってくる保証はない。そう、今日はサトウさん不在の日。わかっていたけど、この静けさはやっぱり堪える。
扉を開けても聞こえるのは書類のカサカサ音
昨日の夕方、机に置かれた分厚い登記関連書類。カサッと開くと、しっかりと彼女の字で「署名確認お願いします」のメモ。几帳面な字だ。事務員歴7年のキャリアは伊達じゃない。でも返事が欲しいのは「署名確認」じゃなくて、「お疲れさまです」のひとことだったりする。
挨拶を返す者のいない朝の習慣
まるでサザエさんのカツオが宿題を忘れてフネさんに怒られる朝のように、どこかで「はいはい」と返ってきそうな雰囲気を想像するけれど、こちとらひとり事務所だ。波平もマスオもいない。返ってくるのはエアコンのブーンという音だけ。
サトウさん不在の静けさ
普段は皮肉の一つでも言ってくれるサトウさんがいるだけで、音量ゼロの会話に色がつく。だが今日は、ただの沈黙。やれやれ、、、人って、いなくなるとよくわかる。
やれやれ、、、今日もか
シャチハタのフタをカチリと閉めて、ひとりツッコミを入れる。「このまま声帯が退化しないといいけどな」。
書類だけが会話を始める職場
書類はすごい。何も言わなくても、伝えたいことが全部書いてある。反論もしなければ、機嫌も悪くならない。でも、それはつまり“何も返ってこない”ってことでもある。
机に置かれた無言の指示
「この申請、至急でお願いします」。赤ペンで囲まれた文字は、まるで探偵漫画に出てくる犯人の予告状のように見える。ただ、こちらに選択肢はない。ルパン三世の銭形警部のように「待てぇ〜い!」と叫ぶ相手もいない。
ボールペンだけが忙しく返事をする
自分の書いた返答を紙に乗せていく。ボールペンのインクが、唯一のコミュニケーション手段だ。書いても書いても、紙から「ありがとう」は返ってこない。
「この処理お願いできますか」のメモに感情はない
サトウさんの字は美しい。でも、そこに音も温度もない。「お願いします」だけが、浮いて見える。
人と書類の違いを考える午後三時
午後のコーヒーを淹れながら、ふと思う。書類は確かに便利で間違えない。でも、会話の“行間”ってやつがない。
紙は間違えないけど、慰めてもくれない
こっちが失敗しても怒らない。でも、落ち込んでても励ましてはくれない。紙は冷たい。便利だけど。
会話ゼロの効率と、疲弊の境界線
黙っていても仕事は回る。けど、気持ちは削れていく。効率って、いつから心の潤いと引き換えになったんだろう。
司法書士という職業の孤独
人と接する仕事なのに、実は孤独。それが司法書士という生き物だ。依頼人とのやりとりも、ほとんどが書面か電話。「先生」と呼ばれても、名前で呼ばれた気はしない。
誰かに頼られる仕事なのに、誰にも話しかけられない
「急ぎでお願いします!」という声だけは元気。でも、こっちの声には「ありがとうございます」もない。それはまるで、球場でピッチャーばかりが投げ続けて、誰もキャッチャーがいない試合みたいだ。
元野球部が恋しいのは声援だったのか
そういえば、野球部時代は誰かがいつも声を出していた。あの「ナイスボール!」が、今いちばん欲しい言葉かもしれない。
それでも僕らは書類を交わす
日が暮れてくる。誰にも返事をもらえなかった日でも、業務は終わっていく。書類の山は片付いていく。達成感?いや、それはあまりない。
無言のまま進む一日
「お疲れさま」と呟いてみる。書類は無反応。エアコンの風だけが返事をした。
話しかけても返事がない世界の中で
それでも明日は来る。明日も書類は届く。そして、僕もまた話しかけてしまうんだろう。返事がないことを知りながら。
それでも今日もペンは走る
「やれやれ、、、」。僕はボールペンのキャップを閉じて、電気を消した。明日もまた、書類とだけ話す一日が始まる。