午前十時の依頼人
登記簿に現れない家
その日、事務所に現れたのは妙に落ち着かない様子の中年男性だった。手にはくたびれた封筒。開口一番、「家を売りたい」と言ったが、渡された資料には住所だけがあり、肝心の登記簿の写しが見当たらなかった。
「登記簿は?」と尋ねると、男は首を傾げた。「いや…確かにあるはずなんですけどねぇ」。嫌な予感がした。土地だけじゃなく、建物の登記がない。つまり、その家はこの世に存在しないことになっているのだ。
サザエさんでいうところの波平さんが突然「家ごと引っ越すぞ」と言い出すレベルの唐突さだ。そう簡単に話が進むはずがない。
書類のない家屋
地番図に空白の土地
管轄の法務局で地番図を取り寄せてみた。すると、依頼された「家」はそこに描かれていない。周辺はびっしりと住宅が並ぶのに、彼の家がある場所だけがぽっかりと空白になっていた。
不動産屋でもらったという図面は、手書きで書き加えられている。どうやら建築後も登記されていなかったようだ。こうなると、単なるミスではなく、意図的な未登記の可能性が高い。
「これは、、面倒だな」と呟くと、サトウさんが無言でコーヒーを机に置いた。やれやれ、、、胃が痛くなるような案件の予感しかしない。
サトウさんの冷静な指摘
過去の登記簿との食い違い
事務所に戻って資料を整理していると、サトウさんがふと口を開いた。「十五年前の地図には、その場所に空き地って記載されてますね」。どうやらその頃から建物はあったが、何者かによって意図的に登記されなかったらしい。
「じゃあ、誰が建てたんだ?今の依頼人か?」と聞くと、「その可能性は低いです。固定資産税の課税名義人が違います」。塩対応の裏に潜む圧倒的情報処理力。サトウさん、やはり只者じゃない。
司法書士として、そして元野球部の粘り強さを思い出して、ここは一つ粘るしかない。
近隣住民が語る不審な男
十五年前の火災と記憶の断片
その家の隣に住む老人に話を聞いた。どうやら十五年前、火事があったらしい。燃えた家の跡地にプレハブのような家が建てられ、知らぬ間に人が住み始めたという。
「名乗らないんだよなぁ、あの人。郵便も来ないし、表札もなかったろ?」と老人は言う。住所不定の幽霊屋敷とでも言いたげなその語り口に、背筋がすっと冷たくなった。
ここまでくると、未登記の家は単なる法務上の問題ではない。何かを隠すために、家を「存在しないもの」にしていた可能性がある。
古い謄本の中の名前
存在証明と失われた戸籍
手元の書類をめくっていると、十五年前にその土地を所有していた人物の名前が目に入った。すでに死亡扱いとなっており、相続人がいないということになっていた。
だが、その人物と今の依頼人の顔写真が、不気味なほど似ていた。戸籍を洗うと、死亡届の出された日と家が燃えた日が一致していた。まさか、自分の死を偽装して住み続けていたのか?
これは、、、ルパンかキャッツアイか。サトウさんの冷たい一言が頭に浮かぶ。「三流のトリックですね」。
手続きの影に潜む罠
司法書士が追う登記の矛盾
依頼人にそれとなく尋ねてみた。「この家、ずっとあなたが所有してたわけじゃないですね?」すると彼は目を逸らした。「いや……まあ……そういうことになります」。
つまり彼は、誰にも知られず生き続けたかったのだ。登記されない家に、存在しない人間として。そして今になって、生活が苦しくなり「財産」を現金化しようとしたのだろう。
だが、司法書士の前では、そうはいかない。法の番人ではないが、抜け道を見つけたらそれを塞ぐのも役目だ。
やれやれそんな話かと思ったが
あのとき見落としていた一点
彼が差し出した最後の一枚の紙に、見覚えのある地番が書かれていた。かつて別の事件で扱った放棄された土地。つまり、彼はその空き地を使って新たな人生を演じていた。
「サトウさん、あの地番と、これ、照合してくれ」。すると彼女はPCを操作しながら言った。「一致してますね。しかも、あの土地、来月で時効取得が成立します」。
やれやれ、、、これは追い詰めるべきか、それとも見逃すべきか。元野球部らしい延長戦の判断を迫られる気分だった。
向こう側からの視線
未登記の家にいた人物の正体
再び依頼人と向き合い、「あなた、本当は誰ですか」と問うた。彼はしばし沈黙したあと、「……十五年前に死んだはずの人間です」と答えた。
過去の火事、戸籍の死亡、登記の空白。そのすべてが彼の仕掛けた偽装だった。だが、その家に住み続けることで、彼なりの罰を受けていたのかもしれない。
世の中には、光の当たらない場所で生きる者がいる。その向こう側から、こちらを見つめている者がいる。
サインされなかった申請書
なぜ誰も登記しなかったのか
依頼人は最後に言った。「この家は、記録に残したくなかったんです」。誰にも知られず、ただ生きた証だけを残したかったのだろう。
登記とは、存在の証明だ。だが、人によってはそれが呪いにもなりうる。彼はそれを恐れて、記録に背を向けたのだ。
机の上には未記入の登記申請書。そこに名前を書くことは、彼にとっての“死”だったのかもしれない。
静かな終わりと報告書の行方
サトウさんの淡々とした一言
結局、依頼は断った。申請もせず、報告書も残さず、ただ記憶だけが積み重なる。サトウさんは最後にこう言った。「司法書士って、便利屋と勘違いされてるんでしょうかね」。
やれやれ、、、こっちは便利屋どころか、探偵もルパンもやらされてるんだ。そうぼやきながら、次の依頼の電話を取った。
机の片隅には、サインされなかった申請書だけが、風もないのにふっとめくれていた。