朝の静けさと不意の来客
八時五十七分。まだ誰も来所しない時間帯だというのに、インターフォンが鳴った。コーヒーを片手に椅子に沈み込んでいた私は、ちょっとした溜息とともに立ち上がる。土曜日の朝、こんな時間に来るのは、だいたいロクな話じゃない。
玄関を開けると、黒いジャケットに身を包んだ女性が立っていた。目元に疲れを感じさせながらも、毅然とした態度で「委任状をお願いしたくて」と切り出す。まだ玄関のドアも全開にしていないのに、それだけははっきりしていた。
九時ちょうどのインターフォン
時計の針がちょうど九時を指したときだった。秒針が「カチッ」と音を立てると、まるでタイミングを見計らったかのようにチャイムが鳴った。偶然か、それとも計画か。少なくとも司法書士にとって、そういう違和感は重要だ。
「やれやれ、、、また厄介な朝が始まる」とぼやきながら、私は応接室に女性を通した。サトウさんはすでに出勤しており、無言でコーヒーを出してくれた。彼女は表情ひとつ変えずに、私の「違和感センサー」が働いたことに気づいていた。
委任状を差し出す女
封筒の中から出てきたのは、印刷された委任状と数枚の戸籍謄本。内容は相続登記の依頼で、亡くなった父の名義を長女である彼女に変更したいというものだった。だが、すでに書かれた日付と署名が、私の中で小さな警鐘を鳴らす。
「どなたかに書いていただいたんですか?」と訊ねると、女性は一瞬、目をそらした。「はい、父が亡くなる前に、自分で用意してくれました」そう言ったが、その返答には妙な間があった。
依頼内容の違和感
登記の手続きそのものは特に複雑ではない。だが、委任状の日付が亡くなる三日前という点が気になった。通常、病院に入っているような状況では、委任状の準備どころではないはずだ。しかも、筆跡が妙に整っている。
私はそれとなくサトウさんに目配せする。彼女は無言でうなずき、戸籍謄本のコピーを取りながら何かを考えている様子だった。経験上、彼女の「沈黙」は何よりも雄弁だ。
サトウさんの冷静な観察
「この筆跡、少し癖がありますね」サトウさんが静かに言った。私はうなずいた。文字のバランスが良すぎる。書き慣れていない者が急いで書いたものには見えない。何より、「署名」の部分だけ、インクの濃さが違っていた。
彼女は机の引き出しから筆跡鑑定に使う拡大鏡を取り出した。まるで少年探偵団のような手際で、「これ、ペンが途中で変わってます」と指摘する。さすがだ。
苗字の署名に潜む違和感
「苗字だけ、違う筆圧なんです」サトウさんの指が署名を指し示す。姓の部分は濃く、下の名前はかすれていた。誰かが苗字だけを書き足したのか、それとも上からなぞったのか。
これはただの委任状ではない。偽造の可能性がある。だが、いったい誰が? なぜ?
書類の筆跡が導くもの
「サインはまだ濡れていた」という比喩があるが、今回のは本当に“湿っていた”。昨日印刷されたかのように新しく、インクのテカリまで感じられる。私は書類の余白を見つめながら、ある可能性を思い浮かべた。
「この筆跡、どこかで見たような気がするんだが、、、」私は昔の資料棚をあさり始めた。
元野球部の勘が騒ぐ
野球部時代、キャッチャーだった私は、相手の癖やサインプレーを読むのが得意だった。あの頃の記憶が、今でも書類を読むときに活きている。私の勘は言っていた——これは過去に見たことのある筆跡だと。
「もしかして、、、」私は古い相続案件のファイルを開いた。そこにあった署名と、今回のものはほぼ一致していた。問題は、それが別の人物のものであることだ。
訪問者の嘘と真実
依頼人は「父が書いた」と言っていたが、筆跡は明らかに長男のものと一致していた。つまり、何者かが父の名前を使って、委任状をでっち上げたということになる。
「これ、提出先に持っていったらまずいですね」私は彼女に正直に伝えた。「虚偽の登記申請になります」依頼人の顔がサッと青ざめた。
戸籍謄本に隠された関係
もうひとつ気になるのは、戸籍謄本に記載された“除籍”のタイミングだ。父が亡くなる数ヶ月前に、すでに長男が家庭裁判所に対して何らかの申し立てを行っていた記録がある。どうやら家族の内情は一筋縄ではいかないらしい。
「誰が本当の相続人なのか、改めて調査が必要です」私は淡々と告げた。
意外な人物との再会
調査の過程で、かつて私が担当した遺産分割協議書の案件に辿り着いた。そこには、依頼人と今回の被相続人が別の事件で対立していた事実が記録されていた。つまり、今回の依頼は、復讐や報復のために仕組まれた可能性があった。
「やっぱり、世の中はサザエさんのように平和にはいかないもんだな」私は自嘲気味に呟いた。
古い依頼人とのつながり
「この人、昔あなたに登記を断られた兄の奥さんです」サトウさんが古い書類を差し出した。やはり、全てはつながっていた。断られた過去を逆恨みし、今回は妹を使って再挑戦してきたのだ。
やれやれ、、、ほんと、手が込んでる。
事件の核心と犯人の動機
真相はこうだ。長男が父の署名を偽造し、妹に委任状を持たせて登記を試みた。妹は善意で動いていたが、背後で兄が糸を引いていた。動機は遺産の偏在。兄は生活が苦しく、父の遺産にどうしても手を出したかったのだ。
だが、証拠がそろってしまえば、それは単なる「偽造」でしかない。
偽装された遺産分割協議書
提出されるはずだった書類一式には、第三者の同意欄も無断で書かれていた。しかも、その印鑑は過去に登記で使用した実印のコピーだった。サトウさんがそれを見抜いたおかげで、大事になる前に止めることができた。
「コピー印鑑は甘いですね。朱肉の滲み方でバレます」彼女は淡々と語った。
サトウさんのひと言で幕を引く
「提出しなくてよかったですね」サトウさんは静かに呟いた。依頼人は泣き崩れ、「兄とは縁を切ります」と言った。真実は時に冷酷だが、それでも向き合わなければならない。
私は書類をそっと閉じ、机の引き出しにしまった。
うっかりミスが決め手になる
決定的な証拠は、兄が使ったボールペンのインクだった。同じ型のペンを使っていた私は、インクの色に微妙な違いがあることに気づいた。野球で言えば、握り方の癖みたいなものだ。
それに気づいた私を見て、サトウさんがぼそっと言った。「たまには役に立ちますね」
結末は机の引き出しの中に
机の引き出しには、数十件分の依頼書と、一件の封筒が静かに収まっていた。すべては記録され、証拠として残される。委任状の偽造事件は、関係者への通知とともに終結を迎えた。
朝九時の静けさは戻ってこないが、私は今日もまた一件、妙な依頼を片付けた。