朝一番の依頼人は泣いていた
八時五分。まだコーヒーも口にしていない時間に、ひとりの女性が事務所を訪ねてきた。肩まで伸びた黒髪は濡れていて、雨ではなく涙のようだった。受付で無言のまま封筒を差し出し、机に手を添えるその姿には、なにかを失った人間だけが持つ、重たさがあった。
サトウさんがちらりと俺を見る。いや、にらんだ、と言った方がいいかもしれない。「ちゃんと聞いてあげてください」という無言の指示。俺はうなずいて、その封筒を受け取った。
中には、一通の手紙と、登記事項証明書が入っていた。筆跡は古めかしく、差出人の欄には男性の名前があった。
古びた手紙と登記簿の名前
封筒の中から取り出した手紙には、こう書かれていた。「この家をあなたに遺したい。私の名前はもうあなたには名乗れないけれど」。差出人の名前と登記簿に記載された名義人の名前が一致しない。
ただの勘かもしれないが、こういう「ずれ」は事件の始まりになる予感がある。いや、事件とまでは言わずとも、人が嘘をつくときの予兆だ。
サトウさんがぽつりと「公正証書遺言ではなさそうですね」と言った。その言葉が、事件のスイッチだったのかもしれない。
涙の理由は愛か罪か
依頼人は語った。「あの人は亡くなる直前、手紙だけを残して消えました」と。相続の話かと思いきや、話は妙な方向へと進む。「私は、遺言も、証書も、なにも受け取っていないんです」
ただ一枚の手紙と登記簿のコピー、それだけが遺された証。だがそれでは相続の証明にはならない。司法書士である以上、法的な手続きに従う必要がある。けれど——これは、恋の未練が生んだ謎だ。
やれやれ、、、どうして俺がこの恋の後始末をする羽目になるのか。
あの日の登記に残された違和感
登記簿の閲覧で見つけたのは、名義人の住所が直近で変更された履歴だった。だが、その新住所が記された時期には、既にその男は入院していたはずだ。
「つまり、本人が手続きしていない可能性が高い」というサトウさんの指摘。彼女の目は、鋭く紙面の矛盾を追っていた。
しかもその住所には、今別の女性が住んでいた。名義変更はされておらず、相続もされていない。そこに浮かぶのは、二人の女と一人の男という、まるで昼ドラのような構図だった。
旧姓と現姓の謎
遺された手紙の中にあった名前は、登記簿に載っている名義と異なる名字だった。しかも筆跡は明らかに女性のもので、封筒に書かれた差出人の名前と一致しない。
「名義人になりすまして、何かを仕組んだ可能性がありますね」とサトウさんがつぶやく。俺はその瞬間、昔観た『キャッツアイ』の一場面を思い出した。愛と犯罪の境界は、いつだって曖昧だ。
そのとき、依頼人が小さく言った。「あの人、私のために、全部背負ってくれたんです」
境界線の外に置かれた想い
誰かの想いは、法では割り切れない。登記簿上の名義は他人のままで、愛の証は私的な手紙一通。依頼人の「受け取れなかった愛」と「受け取れない不動産」が重なって、彼女を泣かせていた。
俺たち司法書士は、書面でしか判断できない。だけど、その向こうにある「本当」は、時に書面より雄弁だ。そう思った自分に驚きつつも、俺は法の言葉で何ができるかを考えた。
「遺言じゃなくても、残せる手段はあるかもしれません」と呟いた俺に、サトウさんは一言。「その前に、真相を明らかにしないと意味がありません」
サトウさんは恋に鈍感じゃない
「あの人、たぶん嘘をついています」依頼人が帰ったあと、サトウさんは呟いた。「手紙は、あの人が自分で書いたんじゃないですか?」
え、と目を見開いた俺に、彼女は机に広げた筆跡鑑定の資料を指差した。「この書き方、今さっき事務所で記入した依頼書と一致しています」
まさか、自作自演? そこまでやるか? だが動機を考えれば、わからなくもない。愛した人の名義で何かを残したかった——それが罪であっても。
塩対応の裏にある鋭い視線
普段は「早くしてくれませんか」とか「それ、昨日言いましたよね」と言ってくるサトウさんだが、本気を出したときの彼女は怖い。情報の整理、疑問点の抽出、照合の速さが桁違いだ。
「法務局で筆跡と押印を比較しましょう。きっと、本人が書いたものじゃありません」彼女の目には、確信が宿っていた。
俺はただ、うなずくしかなかった。やれやれ、、、サザエさんの波平より先に説教されるとは思わなかった。
真実は登記簿の余白に書かれていた
筆跡鑑定の結果は明白だった。登記申請書の署名も、住所変更の申請も、全て依頼人自身の筆跡だった。そして——それは、偽造だった。
恋人を装って、不動産を自分のものにしようとした未遂。刑事事件にはならないギリギリのラインだったが、登記は取り消されることになった。
手紙は本物だったのかもしれない。でも、それを利用してしまった彼女の「誰にも言えない恋」は、文字通り、裁判所の引き出しで封印されることになった。