恋人を名乗る者

恋人を名乗る者

依頼人は笑顔の女

午後一番、事務所のドアが軽やかな音を立てて開いた。現れたのは30代前半と思しき女性。控えめなスーツに、どこか計算されたような微笑みを浮かべていた。初対面の相手にしては、妙に「親しみやすい空気」を演出しているように感じた。

「こんにちは、登記の相談で…」と、彼女は迷いなく椅子に腰掛けた。その姿勢の良さに、なにか演技を見ているような違和感が拭えなかった。

妙に整った申請書

彼女が差し出した申請書類は、驚くほど整っていた。素人が書いたにしては完成度が高すぎる。しかもミスも消し跡もない。書類慣れしている者の手によるとしか思えなかった。

「恋人名義で共同所有の不動産登記をお願いしたくて…」という説明には、淡々とした熱があった。恋人の名前は確かに書いてある。だが、何かが腑に落ちない。

恋人と書かれた関係欄

関係性を記入する欄に「恋人」と手書きされていた。だが、登記上、関係性の記載は義務ではない。わざわざ書いた理由が不可解だった。強調する必要があるのか、それとも印象操作か。

「ご本人の委任状はお持ちですか?」と尋ねると、「もちろんです」と微笑みながら封筒を差し出す。まるで用意周到な舞台演出のようだ。

違和感は一文字から

封筒の中には印鑑証明書と委任状が揃っていた。だが、そこに書かれた署名がどこか不自然だった。漢字の一部が、妙に画数を省略して書かれている。しかも二カ所、異なる癖があった。

「これは…ちょっとサトウさん、目を通してもらえる?」そう頼むと、彼女は書類を一瞥しただけで小さくため息をついた。

サトウさんの冷静な指摘

「この署名、印鑑と微妙にズレてますね。あと、字のバランスもおかしい。左上に傾いているのが1枚目、右下が浮いてるのが2枚目。別人の可能性あります」

彼女の目は確かだ。まるで怪盗キッドの変装を見抜く工藤新一のようだ。私は思わず唸った。「恋人の愛を証明する書類」としては、あまりに雑な偽造だった。

癖字と捺印のずれ

さらに検証を進めると、印影の角度が微妙にずれていたことも判明した。捺印を2回以上にわけて押しているような痕跡があった。明らかに不自然な手間がかけられている。

「これ、たぶん本人の承諾なく勝手に作ったやつですね。昔の委任状のコピーを流用してる可能性もあります」サトウさんが無表情で言い放つ。

名義の裏に潜む罠

書類の名義は、都内のワンルームマンションだった。資産価値はそこそこある。共同名義にしておけば、後の売却時に持ち分を主張できる仕組みだ。だが、それには「同意」が絶対条件だ。

「恋人ですから」と繰り返す彼女の言葉に、どこか演技臭い硬さを感じた。まるで自分自身を洗脳しているようにも見えた。

元カノか別人か

調査を進めるうちに、対象の名義人がSNSに公開していた情報と、この女性のプロフィールが一致していないことが判明した。生年月日も、趣味も、勤務先も、何一つ接点がない。

「この女性、恋人じゃないですね。たぶん一方的に知ってるだけの…いわゆる、ストーカー寄りの人物です」

書類から浮かぶ過去の交際履歴

書類の一部に、旧姓のようなものが残っていた。おそらく過去にこの名義人と一時的な交際があったのだろう。そこから執着が始まり、不動産を奪おうとした…そんな筋書きが浮かんできた。

「サザエさんでいえば、ノリスケさんの書類にカツオが勝手に名前を足して小遣いもらおうとする、みたいな話ですね」とサトウさんがぼそっと呟いた。

やれやれ、、、詐欺か愛か

私はコーヒーをすする手を止めて、書類をじっと見つめた。結局、彼女は「確認してからまた来ます」と言い残して、二度と現れなかった。やれやれ、、、平和な午後が台無しだ。

騙される前に気づけてよかったが、ほんの少しだけ、彼女の「必死な演技」に哀れみを覚えたのも事実だった。

元野球部のカンが働く

野球部時代、配球を読むカンは結構冴えていた。あの違和感は、まさに「構えたキャッチャーと逆球が来た」あの感覚に近かった。

人は思わぬ場面で昔の経験が役に立つらしい。グローブの代わりに、今回は六法全書を構えていたわけだが。

名前だけでなく住所も虚偽

念のため、委任状の住所も調べてみた。番地が存在しない。いや、存在していたが、そこは今は駐車場になっている空地だった。

「さすがにこれはアウトですね」とサトウさんが珍しく苦笑した。

真実は記録の中に

法務局の過去の登記記録を追い、彼女の名前がかつて一度だけ、賃借人として出てきた文書を発見した。それも今から5年前、名義人が住んでいたマンションの別室だった。

その瞬間、全てがつながった。彼女は名義人の隣人だったのだ。おそらくそこから執着が始まったのだろう。

法務局に残された旧データ

古い賃貸契約書には彼女の署名が残っていた。字の癖は、今回の委任状と一致していた。偽造の証拠にはならないが、偽名義での接近の痕跡としては十分だった。

私たちはその資料をコピーし、念のため警察に報告書を提出することにした。

偽装の動機は「恋」ではなかった

後日、名義人の男性が現れた。「実は、数年前にしつこく迫ってきた人がいて…」と、すでに警戒していた様子だった。彼女が「恋人」と自称していたことにも心当たりがあると言った。

結局、彼女の目的は「愛」ではなく「金」だった。登記を利用した詐取の手口。だが、それを阻止したのは、六法と冷静な事務員と、そして一つの違和感だった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓