朝一番の電話
事務所の電話が鳴ったのは、まだコーヒーの香りが事務所内に漂っている頃だった。相手は何も名乗らず、ただ「相続放棄の件で……」と低く言っただけだった。
妙に湿った声だった。その湿気がこちらにまで伝わってくるようで、受話器の向こうに何かが沈んでいることだけははっきり分かった。
受話器を置くと、コーヒーは冷めていた。サトウさんが書類をめくりながら「また、放棄ですか」と言った。淡々とした声に、朝の重たさが少しだけ和らいだ。
無言の依頼人と相続放棄の一言
その依頼人は、名前も言わず、住所もはぐらかした。ただ「ある家の相続放棄を手続きしてほしい」とだけ言い残し、電話を切った。
ふざけた依頼だ、と思った。だが、相続の放棄には逃げたくなる理由がある。私はふと、昔読んだ『キャッツアイ』のように、家の中に隠された何かを想像していた。
「やれやれ、、、」と思わず口にしていた。そんな依頼に限って、厄介ごとを引き寄せるのだ。
サトウさんの冷静な視線
「その家、ここから車で30分ですね。地図で見ると、廃墟みたいに見えますけど」サトウさんが淡々と指をさした。彼女の目は地図を見ていても、すでに何かを見抜いているようだった。
「そういう家ほど、何か埋まってるもんだ」と私が言うと、「物理的にですか、心理的にですか?」と切り返された。やっぱり頭が切れる。
とはいえ、こうして動くのは私の役目だ。誰もやりたがらないことを、誰かがやるのが司法書士というものだ。
遺産を巡る不可解な拒否
その家には、四人の兄弟姉妹がいた。全員、相続放棄済み。まるで示し合わせたかのように、申立書が揃って提出されていた。
不自然に揃った書類。そこに疑念が生まれた。相続を放棄するのは自由だが、同時に全員が放棄するほどの理由とは何だろう。
遺産目録には、田舎にある一軒の空き家と、数万円の預金しか書かれていなかった。
遺産目録には一軒の空き家
その空き家の写真は、登記簿に添付された古いもので、玄関の戸が歪んで写っていた。どう見ても、人が住める状態ではなかった。
「こんな家、誰も要らないですよ」とサトウさんが言う。だが私はその「要らない」こと自体が、むしろ不気味に思えた。
本当にただの古家か?いや、それならもっと手放し方があるはずだ。
兄弟姉妹全員の放棄届出済み
全員の放棄届が提出されているにもかかわらず、その文面はどれも似通っていた。「家庭裁判所へ提出済」「遺産に関心なし」——それはまるで、テンプレートに押されたゴム印のようだった。
なぜ全員が、まるで台本でもあったかのように口を揃えたのか。それが一番の謎だった。
「逆に誰かが隠れて得してるってことも?」サトウさんが呟いた。私も、同じことを考えていた。
シンドウの現地調査
車でその家を訪ねると、案の定、玄関の鍵はかかっていた。庭には猫の足跡、しかし人の気配はない。
鍵を壊すわけにもいかないので、裏口を覗いてみると、窓が半開きだった。田舎の家にありがちな防犯意識の甘さが、今はありがたかった。
玄関を開けると、空気が動かない。蔵があった。開かないように縄でくくられていた。
蜘蛛の巣と鍵のかかった蔵
縄をほどいて蔵の扉を開くと、すぐに埃が舞い上がった。中には何もない、と思ったが、奥に段ボールがひとつだけ置かれていた。
その中には、古い戸籍謄本と、誰かが書いた遺言書のようなメモ書きがあった。だが、それは正式な書式を満たしていない。
「この人、隠されてたな……」と私が呟いた。戸籍には、一人だけ名が消されている人物がいた。
隣人が語る五年前の事故
家の隣の農家を訪ねると、老人がぽつりと語り出した。「五年前のことだよ。末っ子のヨシオ君、あの蔵で首を……」
喉が詰まった。サトウさんがすぐに「ありがとうございます」と話を切ってくれた。
その時、すべてが繋がった。兄弟たちは、あのことから逃げていたのだ。放棄の理由は、蔵の中にあった“死”だった。
古い戸籍と消えた相続人
戸籍を調べると、「養子縁組」「転籍」「抹消」などの記録が入り乱れていた。だが、ひとつ見逃せない改ざんがあった。
あるはずの人物の名が、ある時期からすべての謄本から抜け落ちていたのだ。行政ミスではない、意図的な何かだった。
司法書士としては扱えない領域だが、人としては気になって仕方がない。
見落とされた一人の名前
除籍謄本の余白に、小さく書かれた「分籍ヨシオ」の文字。それが答えだった。
彼は家族から外され、遺産からも外され、存在そのものが葬られていた。
この相続放棄は、家を継ぎたくないのではなく、過去を継ぎたくなかったのだ。
サトウさんの推理
「これは“放棄”じゃなくて、“封印”ですね」サトウさんが言った。的確な言葉に、私は無意識にうなずいた。
まるで『金田一少年の事件簿』のように、過去が丁寧に隠され、誰も触れないよう細工されていた。
真実を知った私は、何かを解決した気にも、何もできなかった気にもなった。
放棄の真意は「逃げ」か「隠し」か
「相続放棄って、誰かが財産を諦めることじゃなく、時には“誰かの存在”を消す行為にもなるんですね」とサトウさん。
「やれやれ、、、それを扱うのが俺たちってのも、皮肉だな」と私は言った。
冷めた缶コーヒーを飲みながら、静かに夕方を待った。
結末の鍵は家の奥の箱
箱の底には、ヨシオが書いた手紙があった。幼い字で「お父さんごめんね」と書かれていた。
それだけのことだ。それだけなのに、それを見て、私は胸が詰まった。
相続とは、死後にだけ始まるものではない。生きていた時間の分だけ、すでに始まっているのだ。
封印された手紙と告白文
私は手紙を封筒に戻し、サトウさんに渡した。彼女は受け取り、そっと机の引き出しにしまった。
「処分しますか?」と聞かれ、「いや、それは俺の引き出しに入れといてくれ」と言った。
司法書士には守秘義務がある。だが、これはそれ以上に重たい“記憶”だった。
シンドウの報告と結末
依頼人に報告した。あの家の放棄手続きは完了した。だが、依頼人はもう別の携帯番号に変わっていた。
誰かが忘れようとした家。誰かが葬った家。それでも、そこには確かに一つの人生があった。
私は事務所に戻り、そっと机に置かれた手紙に目をやった。
相続放棄に込められた家族の決断
サトウさんは何も言わずに、次の仕事の資料を差し出してきた。きっと、これでいいのだろう。
私は次のページをめくりながら、もう一度だけ小さく呟いた。「やれやれ、、、」
今日も、書類と過去の間で生きる仕事だ。