嬉し涙って本当に最後はいつだったか思い出せない
ふとした瞬間、思った。「最後に嬉し涙を流したのは、いつだったろう」。悲しい涙ならつい最近も流した気がする。疲れすぎて、気づけば目が潤んでいた夜。でも、心の底からこみあげてきて、自然と溢れた嬉し涙――それがいつだったか、思い出せない。司法書士として仕事を始めた頃は、そんな瞬間が確かにあった。けれど、今は忙しさに追われて、喜びすら流してしまっているのかもしれない。
達成感に震えた新人時代の登記完了通知
まだ開業したばかりの頃。初めての相続登記を完了させたとき、依頼者の年配の女性が涙を流して「これでようやく父に報告できます」と言ってくれた。役所帰りにコンビニで缶コーヒーを買って、車の中で飲みながらその言葉を思い出したら、自然と目頭が熱くなっていた。たった一件の登記で、誰かの心が少しでも軽くなる――それだけで十分だった。あの時の自分には、まだ涙の出し方を覚えていた気がする。
クライアントと一緒に泣いたあの頃
司法書士というと「淡々とした仕事」のイメージを持たれがちだけれど、実際には人生の節目に立ち会うことが多い。離婚、死別、再出発――人の心の動きに触れることもある。昔、遺産分割調停のサポートをしていた家族が和解に至ったとき、年の離れた兄弟が涙をこらえながら握手した姿を見て、思わず自分も涙ぐんだ。あの瞬間、仕事以上の何かを感じた。最近は、そんな場面に遭遇することすら減ってしまった。
仕事の中に感動があった日々の記憶
今思えば、あの頃の自分はもっと感情に素直だった。良いことがあれば声に出して笑い、うまくいかないときは悔しがり、そしてたまに泣く。感情が豊かだった分、日常も鮮やかだった気がする。最近はどうだろう。ミスなく終えることばかりに集中して、心が動く余地がない。感動という言葉が、どこか遠くにいってしまったような、そんな気がしてならない。
忙しさが感情の余白を奪っていく現実
日々の業務に追われるうちに、「嬉しい」と感じる前に「次はこれをやらなきゃ」が先に出てくるようになった。登記の書類を整え、期限を守り、クライアントに説明して、次の案件へ。達成しても一息つく間もなく、また別の案件が始まる。自営業である以上、仕事があるのはありがたいことだ。でも、その感謝の気持ちすら、どこか形式的になっているのが自分でも分かる。
成果はあるのに「喜び」が薄くなる
一日の終わり、業務完了の一覧を見て「よくやった」と自分に言い聞かせる。でも、それが本当に「嬉しい」と思えているのかは怪しい。数字は残るけど、気持ちがついてこない。たとえば高校野球の試合で、ギリギリで勝ったときにベンチで全員が泣いた、あの喜びには遠く及ばない。喜びの熱量が圧倒的に違うのだ。効率的になればなるほど、感情は置き去りにされていく。
嬉しいより「ほっとした」が勝る毎日
最近の感情は、喜びよりも「無事に終わった」という安堵ばかりだ。たとえば決済の立ち会いでトラブルなく終わった日。以前なら「良かった!」と本気で思えたけど、今は「まぁ、トラブルなくて当然」みたいな空気になっている。自分の中でも、成功は前提であり、感謝や喜びの感覚が鈍っているのを感じる。そんな状態では、嬉し涙どころか、心が震えることもない。
何があれば嬉し涙が出るのか分からなくなった
「もし今、何か起きて嬉し涙を流すとしたら、どんなことだろう?」そう自問しても、すぐには答えが出てこない。以前は、些細なことでも感動していたのに。嬉しさが減ったというより、感情を動かすハードルが上がってしまったのかもしれない。慣れなのか、麻痺なのか、それとも疲れなのか。気づかないうちに、喜びの沸点が高くなっていたのだ。
誰かの「ありがとう」が心に刺さらなくなった理由
今でも感謝の言葉はもらう。「助かりました」「丁寧に説明してくれて安心しました」。でも、それを聞いても以前のように胸が熱くならない自分がいる。どうしてだろうと考えると、きっと心がいつも疲れているのだ。心に余白がないと、温かい言葉もそのまま素通りしてしまう。これは職業病なのか、それとも単なる老化現象か。どちらにせよ、少し寂しい。
疲れてると喜びも鈍るのは本当だった
以前、登記完了の報告をしたときに「先生、すごく助かりました」と言われた。そのとき、自分は「そうですね、間に合って良かったです」とだけ返した。夜、風呂に入りながらその言葉を思い出し、ようやくじんわりと嬉しくなった。でも、直接その場では何も感じなかった。疲れていると、感情の反応速度も落ちるんだな、と実感した。
気づかないふりをしていた自分の無感動
本当は薄々気づいていた。自分の中から感動が減ってきていることに。でも、「忙しいから仕方ない」「これがプロなんだ」と自分に言い聞かせてきた。だけど、それってただの言い訳だったのかもしれない。感情を切り離すことで自分を守ってきたけど、同時に何か大事なものを手放していた気がする。それが“嬉し涙”だったのかもしれない。