風の強い午後に依頼人は現れた
春先とは思えぬほどの風が、古びた事務所のドアベルを執拗に鳴らしていた。
そこへ、黒いハットにトレンチコートの中年女性が現れた。口紅だけが異様に赤く、彼女の過去を物語っているようだった。
机越しにその顔を見たとき、なぜか胸騒ぎがしたのを、俺は今でも忘れない。
親族関係説明図に隠された違和感
「この図面、どこかおかしくないか?」とサトウさんが囁いた。
彼女の指先が止まったのは、故人の配偶者欄だった。そこには名前が記されていなかった。
未婚だったのか、あるいは故意に空欄にされたのか。どちらにしても、説明がつかなかった。
恋の証拠は登記の片隅に
提出された登記申請書を読み込んでいると、末尾に添付された資料に、色褪せた便箋が紛れ込んでいた。
明らかに登記と無関係な私文書——いや、これは手紙だ。しかも差出人は、依頼人と同じ苗字だった。
「これは、ただの書き間違いじゃ済まないぞ」と、サトウさんがぼそっと漏らした。
遺産分割協議書の裏側に滲む筆跡
協議書の裏に、鉛筆で書かれたメモのような走り書きがあった。
それは故人が生前、ある女性に宛てたものと思われる短い言葉だった。
「すべてを君に託した。登記に託すしかなかった——」そう読めた気がした。
サトウさんは一目で不自然さに気づいた
「これ、委任状が旧姓のままですよ」
サトウさんの声に、俺は思わず目をこすった。確かに現在の戸籍上の名前と食い違っている。
だがそれが単なるミスでないことは、彼女の表情を見ればわかった。
「委任状が旧姓のままですよ」
「つまり、この人は戸籍を移していない。だけど、故人は彼女を最後まで家族として認めていたんだ」
サトウさんは淡々と語ったが、彼女の視線はどこか遠くを見ていた。
「…なんでそんなこと、気づくんだよ。サザエさんの波平でも気づかねえぞ…」俺は内心でそう呟いた。
宛先のない通知書
法務局からの送付記録を確認したが、宛先が空白の通知書が一通だけ存在した。
どう考えても、それが彼女への「完了通知」だったのだろう。
だが送られることのなかったその書類は、封もされぬまま引き出しに眠っていた。
差出人不明の郵送物の正体
依頼人が持ち込んだ茶封筒の中には、数年前に差し戻された手紙があった。
宛名の欄にだけ赤ペンで「不明」と書かれていた。まるで、誰にも読まれぬよう願っていたかのように。
「やれやれ、、、俺にこんなセンチメンタルな謎を解かせるなよ」と、ため息を漏らした。
恋文という名の登記申請書副本
あの手紙は、実は遺言と一緒に保管されていたという。
つまり、恋文は証拠として登記書類に紛れ込んでいたのだ。法に守られた、最後の恋の記録だった。
それは、裁かれずとも伝わるべき愛だった。
昔の恋人が相続人だった可能性
調査を進めると、かつての婚姻歴が浮かび上がってきた。
そして、依頼人が故人の最初の配偶者だったことも——。
「でも、世間に顔向けできなかったんでしょうね」とサトウさんは冷静に言った。
不備ではなく、故意の欠落
そのすべての不一致は、偶然ではなかった。
故人が最後に選んだのは、届かない通知という形での愛情表現だったのだろう。
それを俺たちが”補正”することはできなかった。ただ、知ってしまっただけだ。
通知が届かない理由
「通知なんて、出さなきゃ届かないんですよ」
サトウさんのその一言に、俺は何も言えなかった。
たしかに、出さないことで守られたものが、そこにあったのかもしれない。
突然の火災と消えた登記資料
全てが終わった数日後、保管庫の火災がニュースになった。
原因は老朽化による漏電だったが、あの未送信の通知も燃えてしまったらしい。
「これで、本当に消えましたね」と、サトウさんが呟いた。
「やれやれ、、、まさかこうくるとはな」
「この事件、恋と登記のミックスジュースだな…」
俺がそう言うと、サトウさんは一切反応を返さず、無言でコーヒーを啜った。
やれやれ、、、この事務所は今日も静かだ。
結末は、恋の結末と同じだった
届かなかった通知、読まれなかった恋文、忘れられた旧姓。
全ては確かにそこにあったが、今はもう誰もそれを語らない。
それでも、登記簿だけがその記録をひっそりと抱えて眠っている。
法の外に置かれた最後のメッセージ
「結局、誰にも言えなかったんですね。自分の恋を」
俺のその言葉に、サトウさんはほんの一瞬だけ、目を細めた気がした。
俺たち司法書士は、恋の代理人にはなれないらしい。