朝の訪問者と古びた印鑑
朝一番、玄関のチャイムが鳴った。まだコーヒーに口をつけていない時間にやってくる依頼人は、たいてい面倒な相談を抱えている。予感は的中し、玄関先には中年男性が立っていた。手には、経年劣化で蓋がゆがんだ印鑑ケースが握られていた。
兄か弟かそれが問題
話を聞くと、亡き父の遺産を巡って弟と揉めているという。遺言書には不動産を兄が相続すると書かれていたが、弟が提出してきた印鑑証明と押印が合わないと言って譲らない。問題は、遺言書に押された「実印」が本物かどうかだった。
相続登記の依頼に潜む違和感
戸籍や評価証明は揃っているのに、どこか引っかかる。登記は書類の整合性が命だが、それだけでは語れない違和感があった。形式が整っていることほど、却って本質を隠していることがある。見た目が整った遺言書ほど、逆に怪しいのだ。
遺言書と印鑑証明の不一致
比較のために、弟の持参した印鑑証明書と遺言書の押印部分を見比べてみた。素人目には気づかないが、紙質と朱肉の濃さが違う。さらに決定的だったのは、印影の「跳ね」の部分が微妙にずれている点だった。ここから、事態が動き出す。
サトウさんの冷静な指摘
「先生、この朱肉の濃さ、年代が違います。たぶん、コピーして後から押したんじゃないですか?」とサトウさん。冷静だが、どこか軽く毒がある。彼女の推理力にはいつも驚かされる。書類を拡大コピーして検証するよう指示した。
押印日が語る意外な事実
印鑑証明の発行日は遺言書の日付よりも後だった。つまり、遺言書に使われた「実印」は、その時点でまだ存在していない印影という矛盾が浮かび上がった。まるで時を越えて押されたかのような、未来の印鑑。それがこの謎の鍵だった。
登記簿から読み解く家族の歴史
ふとした疑問から、過去の登記簿を調べてみた。父の名義であった土地が、一度弟名義になったあと、すぐに戻されていた形跡があった。どうやら数年前にも一悶着あったらしい。その時の印鑑登録の記録と今回の印影が全く違っていた。
亡き父が遺した真実のヒント
さらに調べると、父は生前に自筆証書遺言ではなく、公正証書遺言を準備していた形跡があった。それを知っていたのは兄だけだった可能性がある。つまり、兄はその存在を隠し、弟が遺言書を「創作」する時間を与えてしまったのだ。
現場検証で浮かび上がる捏造の痕
自宅で保管していたという印鑑を訪ね、実物を確認しに行った。朱肉のしみ込み方、周囲の傷、そして保存状態。どれも怪しかった。「サザエさんの波平さんの髪の毛よりも怪しいですね」と思わず言ってしまい、サトウさんに無視された。
印影のずれと朱肉の色味
朱肉の色は経年劣化で変色するが、押された印影は鮮明すぎた。しかも、最近の100円ショップで買える朱肉に酷似していた。これで確信した。遺言書は偽物、印影も偽物。真実は、兄弟の誰かが押印の「演出」をしたということだ。
サザエさんじゃないけど印鑑が主役
今回の事件、サザエさんのオープニングで波平が毎回吹っ飛ばすあの「ちゃぶ台」があったら、確実にひっくり返ってたと思う。印鑑というのは、それ自体は物静かだが、争いの火種には十分すぎるほどの破壊力を持っているのだ。
サトウさんの推理が冴え渡る
「先生、朱肉っていちばん嘘をつかないですよ。力の入れ方、紙の湿気、全部残りますから」とサトウさん。言葉少なに、しかし鋭く言い切った。彼女の目線の先には、印鑑ではなく、それを使った人間の心理が映っていた。
やれやれ一人で解決した気分になるなよ
「やれやれ、、、俺の出番はほとんどなかったな」と帰り道、思わず漏らすと、隣で歩いていたサトウさんが、ふっと鼻で笑った。最後はたしかに俺が法務局に電話して決定打を打ったのに、なぜか褒められたのはサトウさんだった。
思わず口に出た独り言
「もう助手のくせに名探偵じゃないか、、、俺はただの元野球部か」と呟いたが、誰も聞いてない。今日も司法書士の仕事は、裏方のまま地味に続く。だが、嘘を暴く快感だけは、ホームランに匹敵する瞬間だった。
兄弟が語らなかった確執の真相
結局、兄は真実を受け入れ、弟は法的手段を諦めた。遺産の分け方には納得いっていない様子だったが、印鑑という証拠が二人の関係に一区切りをつけた。皮肉な話だが、紙一枚と朱肉が兄弟の歴史を決定づけたのだ。
手続きの裏にあった静かな争い
表向きには冷静に進む相続登記。しかしその裏には、血のつながりでは解決できない確執があった。サインよりも重い印鑑の一押しが、彼らの最後の主張だったのかもしれない。
司法書士としての役割と決断
俺の仕事は、真実を裁くことじゃない。ただ、書類の裏に潜む危うさを見逃さないことだ。今回もまた、書類の隙間から漏れた嘘を、たまたま運よく掬い上げられただけにすぎない。次は、見逃さない保証なんてどこにもない。
真実を前にした登記の行方
だが、ひとつ言えるとすれば――登記に必要なのは印鑑だけじゃない。そこに込められた「意思」と「信頼」こそが、最終的に名前の横に押されるものなのだ。そう信じたい、せめて。
サトウさんの塩対応とほんの少しの労い
「で、先生。次はどんな揉め事が来ますかね。私、昼は唐揚げ弁当希望です」とサトウさん。事件の余韻もそこそこに、いつもの塩対応である。でも、そのあとに続いた言葉が、少しだけ沁みた。「お疲れさまでした」だってさ。
事件後のささやかな日常
事務所に戻ってパソコンを開く。新しいメールには、またもや「遺産トラブル相談」の文字が並んでいた。ため息ひとつ、そして心の中でつぶやいた。「やれやれ、、、俺の夏休みは、また遠のいたな」。