はじまりは理事長からの電話
午後の気だるい時間、デスクに置いたスマホが不穏な震え方をした。画面に表示された名前は「理事長 川辺」。前に一度だけ登記の相談を受けた人物だ。こんなタイミングでかけてくるということは、ろくでもない話に違いない。
「管理組合でちょっとしたトラブルがあってね……」と川辺は言った。声のトーンは「ちょっとした」とは思えないほど沈んでいた。嫌な予感がした。これまで「ちょっとした」で済んだ依頼は一つもない。
奇妙な依頼と管理組合の謎
「理事長選出の議事録に署名捺印がないって登記官から突っ返されてしまってさ」と、電話口で川辺は苦笑していた。しかし、その後の一言が本題だった。「でもね、不思議なんだよ、捺印はしたはずなんだ、全員が」
登記官の目はごまかせない。形式不備は通らない。だが、理事全員が捺印したと主張するならば、それが消えた理由がどこかにある。というより、そもそも捺印していないのではないか? そんな疑問が脳裏をかすめた。
サトウさんの冷たい分析
事務所に戻ると、サトウさんがコーヒーを飲みながらパソコン画面をにらんでいた。事情を話すと、即座にこう言った。「議事録を捏造したか、誰かが原本を差し替えたんでしょうね。ありがちな話です」
「ありがちねぇ……」と苦笑いするしかなかった。冷静沈着、情け容赦ない推理。相変わらずの塩対応だが、頼れる限りの存在でもある。やれやれ、、、事件のにおいがしてきた。
マンションへ向かう道中での違和感
翌朝、指定されたマンションへ向かった。築25年、エントランスはこぎれいに保たれていたが、どこか重苦しい空気が漂っていた。エレベーターの中、偶然乗り合わせた住人がひとこと、「あの件で来たんですか」と小声でつぶやいた。
どうやら、このマンションでは表に出ない火種がくすぶっているらしい。管理組合の問題は、たいてい人間関係の歪みから始まる。役員同士の小競り合いが、やがて亀裂となって広がっていくのだ。
住人たちの目が語ること
掲示板前に立ち止まる住人たちは、皆どこか落ち着かない様子で視線を泳がせていた。「また揉めてるらしいわよ」と囁く老婦人。噂話は掲示板と共にある。この建物の中に、何か見落とされている“記録されない情報”があるのだ。
エレベーター前で目が合った男性は、理事のひとりらしく、あからさまに目をそらした。嘘をついている目だ。自分が巻き込まれているというより、誰かをかばっている、そんな目だ。
掲示板に貼られた一枚の紙
掲示板の下のほう、他のチラシに埋もれるようにして、一枚のコピー紙が無造作に貼られていた。そこには「修繕積立金の使途に疑義あり」と赤ペンで書かれていた。差出人不明。だが、これが騒動の発端だろう。
誰かが理事会の動きを不審に思っている。そして、捺印の有無とは無関係に、金の流れに目をつけた住人がいる。話はただの形式ミスでは終わらないようだ。
議事録と管理規約の矛盾
管理人室で議事録の写しを見せてもらうと、確かに捺印欄は空白だった。しかも、最新の管理規約では「議事録には署名押印不要」とされているという。だが、法的には必要なのだ。ここがズレている。
この“ズレ”が意図的なものなのか、それともただの無知によるミスなのか。それを突き止めなければ、登記も疑惑も宙ぶらりんになる。頭が痛い。法律と現場、両方に精通してないと割を食うのは、いつも我々司法書士だ。
シンドウの読み違いと訂正印
最初、捺印がないことに気を取られすぎて、肝心の本文に目を通していなかった。議事録本文を精査すると、日付と出席者数が微妙にズレていたのだ。これは……前回の議事録を改ざんして使っている可能性がある。
「この訂正印、不自然ですね」サトウさんが目ざとく指摘した。慌てて捺した感がありありと出ている。誰かが、都合のいい内容に書き換えたというわけだ。
「やれやれ、、、」のため息
「押印漏れ」ではなく「押さなかった」のだ。そして「押せなかった」理由がある。真相を突き詰めれば、議事録に名前の載ったある人物は、その場にすらいなかったのだ。やれやれ、、、またか、という気分だ。
たかが捺印、されど捺印。そこに事件の匂いがする限り、こちらも退くわけにはいかない。背中の荷物が重く感じるのは、年齢のせいだけではなかった。
鍵をめぐる住民の証言
鍵を預けていた管理人が、「あの日は理事長だけが出入りした」と証言した。理事会の開催日、他の理事は誰も来ていない。つまり、その議事録は最初から“ひとり会議”で作られた捏造というわけだ。
理事長が孤独な独裁を演じていたのだとすれば、それは彼の人間性にも関わる問題だ。修繕費、業者選定、すべてが自分の意のままに動かせる状態にあったなら……。
五階の住人が語ったこと
五階の住人がぽつりとつぶやいた。「前の理事長も突然辞めたんですよ。理由は話してくれなかったけど、顔色がひどくて」つまり、過去にも何かがあった。そして、それが今にも続いている可能性がある。
理事長が手にした「自由」は、誰かの犠牲の上に築かれたものかもしれない。そう考えると、この事件は単なる登記の瑕疵では終わらせられない。
浮かび上がる二重の署名
原本と称された議事録をスキャンしてみると、驚くべきことに、PDFには二重の署名跡が検出された。つまり、最初の原本には全員の署名があり、その後、上から別の紙を貼ってコピーされた可能性がある。
物理的な改ざん、まさか令和のこの時代にそんな手口とは……。だが、逆に言えばその稚拙さが裏付けでもある。証拠は、改ざんの痕跡とともにここにある。
筆跡とハンコの不一致
印影を比較した結果、理事の一人のハンコだけ角度が他と異なっていた。しかも、本人の筆跡と署名が食い違っていた。誰かが勝手に印鑑を押したのだ。「理事長以外に考えられませんね」とサトウさんが淡々と言った。
これで決まりだ。理事長は、不正に原本を差し替え、登記を進めようとしていた。だが、登記官の慎重さにより、土壇場で足をすくわれた形になったのだ。
司法書士としての一手
私は理事長に、今の議事録では登記ができないこと、しかも法的に処分対象になりかねないことを淡々と伝えた。相手はぐうの音も出なかった。虚構は長くは続かない。
最終的には、理事会を開き直し、再議事録を作成するという形で収拾がついた。理事長は引責辞任。責任は重いが、司法書士としての私の役目は果たせたと思っている。
そして日常へ
事務所に戻ると、サトウさんがポットから静かにコーヒーを注いでくれていた。「おつかれさまでした」とは言わない。いつものように、目でだけ労ってくれる。
「あ、そういえば次の依頼、遺言の検認らしいです」と、冷たい口調でひとこと。休む間もなく、新たな依頼が舞い込んでいた。やれやれ、、、終わりはないのだ。