朝の訪問者
濡れた足跡と古びた謄本
玄関のチャイムが鳴ったのは、朝の九時を少し過ぎた頃だった。雨の残るコンクリートに、黒いパンプスの足跡が点々と続いている。ドアを開けると、60代くらいの小柄な女性が、しっかりと何かを握って立っていた。
その手には、擦れた角が黄ばみかけた謄本。長年、誰にも触れられてこなかった紙が、何かを訴えるように微かに震えていた。
依頼内容の違和感
亡き夫の名義変更という話
「主人が亡くなりまして、名義の変更をお願いしたいのです」——彼女は丁寧な言葉遣いながら、どこか脚本を読むような棒読みだった。書類の束には、登記識別情報通知、印鑑証明、そして戸籍……必要なものは一通り揃っている。
しかし、俺の長年のうっかり経験が告げていた。どこかがおかしい。名義変更の相談にしては、手続きが整いすぎている。それに彼女は、やたらと謄本をこちらに見せたがっていた。
謄本女と呼ばれる理由
地域に広がる奇妙な噂
「謄本女?……ああ、あの人か」近所の不動産屋に聞き込みに行ったサトウさんがそう呟いた。「謄本ばっかり持って色んな士業を回ってたらしいです。なんでも、元夫が何人かいたとか」
まるでサザエさんの中島が「うちの波平が土地持っててさ」なんていう与太話を信じて大騒ぎする回のように、話が勝手に肥大化していた。だがそれは、火のないところに煙は立たないということでもある。
過去の登記履歴を追う
一枚の謄本が語る別の顔
司法書士にとって謄本は過去と現在をつなぐ手紙のようなものだ。表紙の裏に記載された住所、所有者、そして変更履歴。俺は古い登記事項証明書を取り寄せた。
そこには、彼女の夫とされる人物とは別に、数年前に別の男が名義人だった痕跡が残っていた。抹消登記の理由が「譲渡」になっている。だがそれに対応する売買契約書類は提出されていなかった。
サトウさんの洞察
筆跡と日付の矛盾
「これ、名義変更の委任状なんですけど……日付が逆になってますね」サトウさんは、冷たい声で言った。「あと、印鑑の位置もズレてるし、筆跡も……同じ人が書いたように見えます」
俺が見逃していた細部を、彼女は一瞥で見抜く。毎度のことながら、やれやれ、、、と思わず呟くしかない。俺の立場がないが、事件は進展する。
もう一つの名義
存在しない「もう一人の夫」
登記簿に現れた、謎の前所有者。調査すると、数年前に死亡したという記録があった。しかし、その死亡届には不審な点が多く、提出者の欄には——件の依頼者の名前があった。
つまり、彼女は亡き夫の名義を利用し、土地を渡り歩いて財産を得ていた。時には戸籍、時には謄本を武器に。まるで怪盗キッドのように、書類というマントで正体を隠して。
追い詰められた真実
消された名前と仕組まれた遺産
最終的に判明したのは、過去に数度、遺産相続の際に意図的に誰かの名前が除外されていたことだった。その痕跡を、彼女自身の筆跡で記載された資料が裏付けた。
彼女は語った。「私は、ただ自分の居場所を作りたかっただけなの」その言葉に少しの哀しみが混じっていたが、書類に嘘を書いていい理由にはならない。
偽装された死亡届
市役所と司法書士の連携の罠
市役所職員の証言で、死亡届の受理時に不審を感じていたとの記録が見つかった。「あの人、他人の身分証を使ってましたよ」と言われ、すべてのピースがはまった。
司法書士のネットワークで情報が共有され、俺たちの動きが警察と連携した形で動き出す。おかげで、次の登記をされる前に食い止めることができた。
やれやれ、、、謄本は嘘をつかない
最後に笑ったのは誰か
謄本に書かれた履歴は、修正されても完全には消せない。過去を偽っても、誰かがそれを見抜く。それが俺のような地味な司法書士でも、時に役に立つ瞬間がある。
やれやれ、、、こんな時くらい誰かに「ありがとう」と言われてもいい気がするんだが、サトウさんはいつもの塩対応だった。「当然です、司法書士なんですから」と。
事件の後に残ったもの
正しい登記とその重み
事件は解決した。名義は正しく修正され、遺産も本来の相続人に戻された。彼女は書類偽造と詐欺未遂でしばらくは自由を奪われることになるだろう。
でも、謄本にはまだ彼女の名が残っている。そこには確かに、彼女が生きた証が刻まれていた。そしてそれは、誰にも塗り替えられない。