契印に紛れた殺意
依頼は一枚の売買契約書から
ある秋晴れの朝、郵便受けに分厚い封筒が突っ込まれていた。宛名は「司法書士 進藤行成様」と筆ペンで書かれており、妙に達筆だった。開封すると、中には不動産売買契約書が一式入っていた。
依頼人の署名は済んでおり、問題なく登記を進めてくれという趣旨の手紙が同封されていた。ただ、契約書には見慣れぬほど多くの印影が押されていた。表紙、各ページ、契印、割印、さらには余白にまで。
「こんなに押さんでも……」と呟いた俺は、なぜか背中にぞわっとした感覚を覚えた。これは単なる神経質な依頼人の仕業じゃない気がした。
妙に多すぎる印鑑の跡
契約書に押された印影は、どれも同じ実印のようだったが、微妙に角度や押し方が異なっていた。普段なら気にせず進めるところだが、印鑑証明書と照らし合わせると、押された印影の一部が明らかにかすれており、不自然だった。
「こんなに押し直した理由って、なにか隠したいものがあるってことじゃないかしら?」と、後ろからサトウさんの冷たい声が飛んできた。
俺が慌てて書類を閉じると、彼女は「ふーん」とだけ言って、湯気の立つコーヒーをカップに注いで机に置いた。
やれやれ、、、また面倒な予感だ
サトウさんの予感はたいてい当たる。やれやれ、、、俺の直感もそう告げていた。面倒な依頼に限って、こちらが深入りする前にトラブルが転がり込んでくるのだ。
試しに依頼人の住所に電話してみたが、「現在使われておりません」のアナウンス。売主名義人に連絡してみると、なんと一週間前に急死していたというのだ。
死因は心筋梗塞。だが、死亡日時と契約書の日付が一致していない。どうやら、この契約書が作成された頃には、売主はすでにこの世にいなかった。
サトウさんの冷たい視線と一言
「……死人の意思で契約はできませんからね。登記申請はお断りした方がいいと思いますよ」サトウさんの言葉は冷たいが的確だった。
「いや、そうなんだけどさ……何か引っかかるんだよ」俺は指で契約書の紙の端をなぞった。「この過剰な押印、どうにも気持ちが悪いんだ」
「気持ちが悪いのは、部屋の片付けをしないあなたの机の上もです」彼女の塩対応は今日も健在だった。
亡くなった売主と不自然な契印
死亡した売主、佐藤辰男(仮名)の戸籍を追い、死亡日を確定させる。やはり契約日より三日も前に亡くなっていた。しかも死亡診断書には、急性心不全ではなく、不審な点ありと記載があった。
契印部分をルーペで観察すると、印影の端に不自然な黒ずみが見つかった。墨が重なっていたのだ。つまり、複数回同じ位置に印を重ねて押していた。
「これは捏造だ」俺の中で確信が芽生え始めていた。
第三者の実印が語るもう一つの真実
そして驚くべき事実が発覚した。押されていた印影の一部が、売主本人のものではなかったのだ。なんと、印影の下にうっすらと別人の印章が混じっていた。
その印影は、売主の弟であり、相続人である佐藤敬三(仮名)のものだった。つまり、彼は売主の死後に兄名義で勝手に契約書を作成していた可能性がある。
なぜそんなことを? その動機は、次の調査で明らかになった。
野球部仕込みのひらめきが炸裂
高校時代、野球部で培った「配球の裏を読む力」が、ふとした瞬間に役立つことがある。今回もそうだった。
「この割印、わざとズレてる……いや、ズレさせてる」紙の重ね方と印の重なりを再検証したところ、わざと偽造を隠すために一部のページだけ後から差し替えられていたことが判明した。
そしてその差し替えられたページにだけ、兄の実印が押されていなかった。犯人はそれを隠すため、印影を重ねていたのだ。
複写された印鑑証明と未登記の闇
印鑑証明もコピーされたものだった。真正なものはすでに期限切れで、改ざんされた偽物だった。しかも登記はまだ未了で、不動産は正式に名義移転されていなかった。
「不動産をすぐに転売する気だったんでしょうね。兄が死んだあとにこっそり書類を捏造して……」とサトウさんが呟いた。
つまり、今回の契約書は、死者を利用して作られた偽造書類。その裏には、相続放棄と債務隠しという、よくあるが厄介な犯罪の匂いがしていた。
地元金融機関に潜む黒い影
さらに調べを進めると、弟は地元の信用金庫の職員と繋がっており、その人物が書類のチェックを「目をつぶって」通していたことも判明した。
地元密着型の小さな町では、こういった身内同士の馴れ合いによる隠蔽が横行していることもある。
「まるでサザエさんのマスオさんが磯野家に言いなりになってるのと同じですね」とサトウさんが皮肉を言ったが、俺はその比喩に苦笑するしかなかった。
証拠は一枚の書類の裏にあった
最後の決め手は、契約書の裏面にこびりついていた微細な朱肉の粒だった。それは、ページ差し替えの際にずれた印が別の紙に転写された痕跡だった。
それを鑑定にかけた結果、やはり別人の印影であることが証明された。すべてのピースが揃ったのだ。
俺は、証拠一式を整理し、刑事課へ提出した。登記は不受理だ。
真犯人は意外な人物だった
驚くべきことに、真犯人は弟だけではなかった。なんと、売買の買主もグルだった。つまり、最初から共謀していたのである。
その目的は、兄の死を利用して格安で土地を手に入れ、転売益を得ることだった。巧妙に仕組まれた二重の罠だった。
だが、彼らのミスは「押しすぎたこと」だった。それがこの事件を解く最大の鍵となった。
シンドウの鈍さが最後に光る
「やれやれ、、、やっぱりハンコって、嘘も真実も写すんだな」俺は最後にそう呟いて、コーヒーを一口すすった。
サトウさんが少しだけ口元を緩めたのがわかったが、それを指摘したら多分怒られるだろう。
俺の鈍さも、たまには役に立つ。たぶん。たまに。
サトウさんは笑わないがコーヒーは出してくれた
その日の午後、事務所にはいつもと変わらぬ静けさが戻っていた。ファンヒーターの風が書類の角を揺らす。
サトウさんが湯気の立つコーヒーを黙って机に置いた。「ありがとうございます」と言うと、彼女は一言も返さず奥の部屋へと戻った。
それでいい。司法書士という仕事は、派手な探偵ではない。だが、真実を浮かび上がらせる影の職人だ。今日もまた、一件落着だ。