共有名義は語らない
朝の書類と味のしないコーヒー
机の上には、昨日の夕方に放り込まれた分厚い封筒が三通。コンビニで買ったインスタントコーヒーは、案の定ぬるくて、味がしない。口に含むと、かすかに紙の香りがした。
「今日の朝刊、読んでませんよね?」とサトウさんの声。目を上げると、いつものように無表情でこちらを見ている。いや、若干眉間が寄っているかもしれない。
「いや、コーヒーと一緒に飲もうと思ってたところでね」と答えると、「カフェインの無駄遣いですね」と塩が返ってきた。
サトウさんの冷たい視線と封筒三通
封筒はすべて違う差出人。ひとつは不動産業者、もうひとつは弁護士、そして最後は個人名。それぞれ違う筆跡だったが、内容はすべて「ある土地の名義に関する相談」だった。
「どうせ遺産分割関係のいざこざでしょ」とサトウさんがぼそりと言う。その予想は、八割がた当たっている。問題は、残りの二割に潜む“何か”だ。
「これは、面倒くさくなりそうだな」書類を見ながら呟くと、サトウさんは「あら、珍しく最初から諦めてますね」と、なぜかうれしそうだった。
遺産分割協議書に見えた違和感
一枚の遺産分割協議書が入っていた。兄妹三人による共有名義にするという内容だったが、どうにも違和感があった。記名押印の順番が妙に不自然だったのだ。
たとえば、長男が一番に署名するのは自然だ。だが、ここでは次女→三男→長男の順。そして長男の印鑑だけ、妙に新しい。
「なんか怪しいよな……」独り言を呟くと、「気づくの遅すぎです」とサトウさんの声が鋭く刺さった。
名義の順番が語る嘘
司法書士として、名義に順番の意味はないと言えばそれまでだ。だが、協議書は人間関係の鏡でもある。次女が最初に書いているということは、主導権を握っていたのではないか。
「長男のハンコ、これスキャンじゃないですかね」とサトウさんが拡大コピーを見せてきた。確かに、他の印影と比べて、朱肉の濃淡がない。
「やれやれ、、、やっぱり面倒だ」と、思わず口から漏れる。どこかで聞いたような決め台詞。ああ、あれだ。銭形警部のやつだ。
サザエさんの家にも名義はあるのだ
「サザエさんの家だって、名義の問題があったらドタバタしますよ」俺の冗談にサトウさんは反応しない。波平の名義で、タラちゃんの将来が左右される――そんな妄想が頭をよぎる。
ただの家族の絆では、登記は守れない。紙の上では、信頼も情も関係ない。ただ、記載と証明だけが力を持つのだ。
でも、だからこそ、嘘をつこうとする人間はこの世界に入り込もうとする。正義と信頼を逆手に取って。
二人の元恋人と一筆の遺言
さらに調査を進めると、亡くなった被相続人は、過去に妹と弟の両方と恋愛関係があったという噂が出てきた。なんという昼ドラ展開。というか昭和か。
「気持ち悪いですね」サトウさんが呟く。だが、そこに遺言が絡んでくると話は変わる。感情と権利が絡み合ったとき、泥沼になる。
そして、その遺言が実は存在したが、長男によって破棄されていたことが判明する。なるほど、協議書が急に作られた理由が見えてきた。
法務局が教えてくれた最後の鍵
登記官との会話で、ヒントが得られた。長男の印鑑証明書の日付が、死亡日の一ヶ月前になっている。だが協議書の日付はその二ヶ月後。
つまり、印鑑証明書が先に準備されていた。すべてを仕込んでいたのは、長男だったのだ。
そして、登記簿謄本の閲覧履歴にも名前が残っていた。完璧に用意された共有名義の裏に、一人の孤独な野心が潜んでいた。
意外な訪問者と割れた茶碗
事務所に現れたのは、次女だった。彼女の手には、割れた茶碗が入った紙袋。父の遺品だという。中には、遺言書のコピーが入っていた。
「本物は燃やされました。でも、私は写真を撮ってたんです」涙を浮かべながらも、言葉に力があった。その表情は、登記に勝る証言だった。
「証拠としてはグレーですが、警察が動きます」と俺は告げた。もう、名義変更はできない。今は感情と真実の領域に移った。
サトウさんの一撃と真実の登記簿
「つまり、共有名義に見せかけた単独支配ってことですね」サトウさんがぴしゃりと言った。的確すぎて、俺は思わず唸る。
「でも、紙の上では何も証明できない。だから、司法書士の出番ってわけです」彼女は書類を丁寧にまとめ直した。
あの無表情の奥に、情熱が見えた気がした。いや、たぶん錯覚だろう。俺は今日も疲れているだけだ。
最後に笑ったのは誰か
最終的に、兄は遺言破棄と私文書偽造の容疑で事情聴取された。共有名義は白紙に戻された。だが、傷は残る。
妹は「やっと父が報われた気がします」と言ったが、その目はまだ寂しそうだった。弟は何も語らなかった。ただ、手帳を強く握っていた。
真実は勝った。でも、笑った者はいなかった。いや、一人だけいたかもしれない。父親の写真の中の微笑みだ。
誰の名義にもなれなかった恋
土地は残った。だが、そこにあった感情は、どの名義にもならなかった。誰もが何かを欲しがり、誰もが何も得られなかった。
「やっぱり人の感情って、登記できませんね」と俺が言うと、サトウさんは「今さらです」と一言返した。いつもの塩。
だけど、その塩が、妙に沁みた。
僕はただ、手続きを終わらせるだけ
俺の役目は、終わった書類を整理し、必要があれば関係者に報告すること。誰かの人生に深く踏み込むことはない。できない。
ただ、法に従い、書類と判を重ね、正しい道筋を作るだけ。感情の起伏は、書類には書けない。
でもそれでも、誰かの役に立てているなら、それでいいのかもしれない。
土地は残るが気持ちは消える
共有名義は、結局解消された。だが、それぞれの心には、消えないシミが残ったようだった。
紙では整理できても、気持ちはそう簡単には片付かない。登記簿謄本に残るのは「履歴」だけで、「記憶」ではない。
それでも、仕事は続く。次の封筒が、また届くのだろう。
サトウさんの「お疲れさまです」に救われて
「お疲れさまです」とサトウさんが言った。その声が、いつもより少しだけ柔らかく感じたのは、気のせいだろうか。
「やれやれ、、、」と思わず呟いた俺は、次のコーヒーを淹れ直すことにした。今度こそ、熱いやつを。
コップに注がれた湯気の向こうに、明日がぼんやりと揺れていた。
夕焼けと未記載事項の余白
窓の外には、橙色に染まった街が広がっていた。書類の余白に、メモのような走り書きをして、俺は小さく伸びをした。
未記載事項。それは、人生においても無数に存在する。だが、すべてを書き込む必要はないのかもしれない。
残された余白が、人を前に進ませることもあるのだから。