朝一番の電話に怯える日々
司法書士としての一日は、電話のベルとともに始まる。特に朝一番の電話には身構えてしまう。何かトラブルの予感がするからだ。ある日、着信と同時に「先生、相続関係説明図が間違ってるみたいで…」と声がした瞬間、頭が真っ白になった。もちろんこちらがミスした可能性もゼロではないが、大抵は依頼者側の勘違いや資料の不備。それでも、まずこちらが謝らなければならない理不尽さ。気が重い一日の始まりだ。
相続関係説明図が違う?またかよ…
相続案件において、関係説明図の作成は神経を使う。誰と誰がどうつながっていて、どこで亡くなっていて、戸籍は何通出すのか…。そんな繊細な作業を、時に曖昧な情報で組み立てなければならない。以前、叔父が「長男」だったのに、実際は「次男」だったという例もあった。その結果、すべての書類を作り直し。誰も悪気がないのは分かっている。でも、もうちょっと確認してから依頼してほしいと、毎回つぶやいてしまう。
依頼者は悪くない、でも八つ当たりしたくなる
こちらも人間。たとえ依頼者に非がなくても、同じようなトラブルが何度も続くと、感情が抑えられなくなるときがある。電話を切った後、机を軽く叩いてしまうこともある。それを依頼者に向けることはないし、向けてはいけない。でも、誰かに愚痴をこぼしたくて仕方ない気持ちは、司法書士なら誰しも抱えるのではないか。
手間賃なんてどこ吹く風の報酬体系
この手の「ちょっとした手直し」が報酬に反映されることはほぼない。法務局への提出物が一通増えようが、戸籍の追加調査が発生しようが、基本報酬は変わらない。結局、「サービスでやっておきました」となる。それが積もり積もって、自分の中で不満が溜まっていくのだ。
事務員さんに救われること、怒らせること
一人だけ雇っている事務員さんは、戦友のような存在だ。彼女の細やかな気遣いや段取りのおかげで、日々の業務が回っている。だが、その分、ちょっとしたミスがあると感情的になってしまう自分もいる。口調がきつくなったあとで後悔するが、謝るタイミングを逃してしまう。
感謝してるけど、こっちも余裕がない
忙しいときほど、気持ちに余裕がなくなる。たとえば、月末の登記ラッシュで頭が回らないときに、郵送の封筒を逆に貼ったなんて小さなミスにも過剰反応してしまう。「ちゃんと確認して」って言いながら、内心では「いや、確認する時間も与えてない自分も悪い」と自己嫌悪。でも、その自己嫌悪を抱える暇もなく、次の依頼が入ってくる。
「先生これ、また来てますよ」のひと言が刺さる
彼女の「また来てますよ」の一言は、事実を伝えているだけ。でも、その「また」という言葉に、「前も同じことやってましたよね?」という無言のプレッシャーを感じてしまう。自分の至らなさを突きつけられているようで、妙に落ち込む。そして、そんなふうに勝手に落ち込む自分にまた腹が立つのだ。
登記官の謎チェックに振り回される
法務局とのやり取りは、もはや日常茶飯事だが、登記官の指摘には毎回振り回される。何がOKで何がNGかの基準が見えづらく、昨日通った内容が今日却下されることすらある。そんな理不尽さに、胃がキリキリと痛む。
「備考に一言書いてください」って今さら?
ある案件では、すべての書類を整えて提出したにもかかわらず、「備考欄にこの一文を加えてください」と返ってきた。その一文で何が変わるのか?と聞きたくなる。でも、言っても仕方ない。結局は従うしかないのだ。だが、こうした“形式のための形式”に日々時間と労力を奪われているのが現実だ。
ベテランだからこそ、余計に納得できない
司法書士になって20年近く経つと、自分なりの経験や判断基準も育ってくる。それでも、登記官の意向ひとつで全部やり直しになることもある。新人の頃は「勉強になります」と思えたが、今では「またか…」という溜息しか出ない。そうして積み重なった“納得できない経験”が、疲労となって背中にのしかかる。