朝の封筒とコーヒーのにおい
机に置かれた一通の封筒。差出人は見覚えのない名前だったが、供託金の返還通知と記されている。早朝から事務所に流れるインスタントコーヒーの香りと共に、それは静かに不穏な一日の始まりを告げていた。
「……誰だこの人」声に出すと、背後からカップを持ったサトウさんのため息が聞こえた。「またあなたが忘れてるだけじゃないですか?」
うぐ、と喉まで出かかった言い訳を引っ込める。コーヒーの香りすら、今日は苦く感じた。
見知らぬ供託金の通知書
通知書の内容は簡潔だった。甲田政嗣という人物が供託した金銭を、事務所の名義で返還する旨が書かれている。しかし、僕はその名義にまったく心当たりがなかった。
供託年月日を見ると、ちょうど三年前の日付。あの頃も忙しくて書類にまみれていたが、供託の依頼など記憶にない。
それでも名前には微かな既視感があった。記憶の糸を手繰り寄せると、ある依頼人の顔がぼんやりと浮かび上がった。
サトウさんの塩対応に救われる
「この供託、あなたじゃなくて前任の事務所名義だった可能性ありません?」
そう言ってサトウさんは、無造作に棚から過去の供託書ファイルを抜き取って見せた。彼女の塩対応には、もはや感謝しかない。
やれやれ、、、資料探しは苦手なんだが、ここは彼女に頭を下げるしかなかった。
供託の名義に潜む違和感
ファイルを開くと、そこには確かに甲田政嗣の名があった。だが、依頼主の欄には別の名が併記されている。しかも訂正印が不自然だ。どうにも気になる。
「この印、別人じゃないですかね」とサトウさんがぼそっと言う。そんな馬鹿な、と思いつつ朱肉のかすれ具合を見れば、確かに違和感があった。
甲田政嗣と、もうひとりの名義人。その関係を探ることが、今回の謎を解く鍵になりそうだった。
ありえない登記原因
登記原因証明情報を確認すると、「金銭消費貸借契約に基づく弁済供託」と記されていた。しかし、その契約書の写しが見当たらない。
通常であれば添付されているはずの契約書。つまり、それがないということは、存在しなかったか、意図的に隠されたかのどちらかだ。
僕の背中を冷たい汗が伝った。これはただの供託ではない。何かが仕組まれている。
消された一筆と二重の署名
供託書の下段に、かすかに修正の跡があった。インクの違い、筆圧の変化、そして……重ね書きされた署名。
「消したつもりだったんでしょうね」とサトウさんが呟く。まるで名探偵コナンの蘭姉ちゃんみたいにキレのある一言だった。
この供託、誰かが何かを隠そうとしている。僕の中に火がついた。
過去からの贈り物
その夜、僕は一人で旧いPCのデータベースを開いた。3年前のフォルダに、甲田政嗣のファイルが眠っていた。
そこには手書きのメモと、スキャンされた遺言書の控え。思い出した。あのとき、依頼人は供託を使って何かを守ろうとしていたのだ。
「供託金は、裏切らない」そんなセリフがメモに走り書きされていた。
元依頼人の名と一致する謎の記録
遺言の中に記されていた名前、それは供託金の通知にあったもう一人の名義と一致していた。つまり、彼らは兄弟だった。
そして、裏切りが始まったのは遺産分割協議の途中。兄が弟に金を預け、供託することで信頼を証明しようとしたのだ。
しかし弟は、その金を利用して不正な登記を行っていた可能性があった。
封印された遺言の存在
供託書に添付されなかった理由、それは遺言の内容が彼にとって不都合だったからだ。
本来ならば、金銭は兄の子どもに渡されるはずだった。それを黙って独り占めしたのが弟。つまり、供託金は裏切りの証拠だった。
「やっぱり封印って言葉、便利ですよね」とサトウさんがぽつりと言った。まるでキャッツアイのような眼差しで。
事務所を訪れたのは裏切り者か
翌日、甲田政嗣の弟が事務所に現れた。やけに堂々とした態度で、供託金の返還を求めてきた。
「本人確認書類をお願いします」僕が言うと、男は一瞬だけ動揺を見せた。
それは嘘をついている者の目だった。僕の中で、ピースが揃った。
あのときの保証人
保証人として名を連ねていた人物が、実は兄の友人だった。その証言が、すべてを明らかにしてくれた。
供託の本当の目的は、弟に対する最後の警告だったのだ。「裏切れば、すべて記録に残る」と。
そして、裏切り者はそれを甘く見た。供託の制度を。
供託を盾にした復讐劇
「これは兄が仕掛けた罠だったんだよ」男はそう言って笑ったが、虚ろなその笑顔は敗者のそれだった。
供託金は、兄の遺志として、然るべき相続人に分配されることが決まった。
やれやれ、、、法務局に行く前に、胃薬を買っておこう。
結末と静かな事務所
すべてが終わった後の事務所は、いつもの静けさを取り戻していた。机の上のコーヒーは、ぬるくなっていた。
「ほら、やっぱり供託って侮れませんね」
サトウさんが呟いたその一言が、今日の事件に幕を引いた。
裏切った者と裏切られた者
誰かを信じるという行為は、書面では測れない。
だが、司法書士はその「信じる形」を書き残す職業でもある。僕はその重さを、あらためて思い知らされた。
供託の記憶は裏切らない。それは信頼の最後の砦なのだ。
供託の本来の意味を思い出す
書類の山の中、ふと見つけた先代のメモにこう書かれていた。
「供託は、争いではなく和解の手段であるべきだ」
そう、たとえ裏切りがあっても、それに抗う方法はいつも静かにそこにある。
サトウさんが笑った理由
「次の依頼はもっと平和であってほしいですね」僕が言うと、サトウさんが珍しく笑った。
その笑顔は、供託よりも信じるに足る証拠だった。いや、ちょっとだけ照れたのかもしれない。
やれやれ、、、次こそはコーヒーくらい、熱いうちに飲みたいもんだ。