恋の効力開始日は失念されていた

恋の効力開始日は失念されていた

恋の効力開始日は失念されていた

それは、湿気を吸い込んだ書類が山積する梅雨の午後だった。突然、年季の入ったドアが軋んで開き、ひとりの女性が現れた。濡れたレインコートの裾から覗く細い手足、そして、彼女の手には一通の婚姻届が握られていた。

「これを…登記できますか?」

その声は震えていた。だが、目だけは妙に澄んでいて、まるで何かを確信しているようだった。

謎の依頼人がやってきた日

僕はといえば、ただでさえ忙しいのに、急ぎの抵当権抹消の書類を前にしていたところだった。書類の山の中に突如差し込まれたこの婚姻届が、後にあんな事態を引き起こすとは、夢にも思わなかった。

「婚姻届の登記、ですか…? ええと、それはちょっと…」

すると背後からサトウさんの冷たい声が飛ぶ。「婚姻届自体は役所に提出するもので、登記簿には載りません」

古い婚姻届と「効力発生日」

目の前の紙は、明らかに古びていた。茶色く焼けた端、かすれた文字、だが署名と印鑑はしっかりとある。問題は「効力発生日」の欄だった。

そこには「令和〇年〇月〇日」とだけ書かれていたが、肝心の日付がすべて消えていた。消しゴムで消した形跡すらない。

「この欄が空白だと、婚姻の効力が曖昧になりますよ」と僕は言った。

なぜ彼女は「登記」がしたいのか

彼女はためらいながら答えた。「彼の相続で、私が妻だったと証明できれば、不動産の持分が…」

つまり彼女は、その空白の効力開始日を「恋の証拠」に変えようとしている。だが、法の世界ではそれは簡単には通らない。

「これは感情じゃなく、日付の問題ですね」とサトウさんがぴしゃりと言った。

古文書のような婚姻届

書類の材質自体が、昭和からのタイムカプセルのようだった。もしかしてこれは…と僕は婚姻届の端を光にかざしてみた。

「透かしがある…?」

そう、普通の用紙ではない。どうやら彼女が提出しようとしている婚姻届は、数十年前の記念用の様式だった。

西暦も和暦も書かれていない日付欄

西暦? 和暦? いや、どちらも空欄。しかも数字の痕跡すらない。

「これ、消したというより最初から書いてないですね」

僕の言葉に、サトウさんが「やれやれ…」と小さく呟いた気がした。

捺印はあるが、筆跡が一致しない

さらに奇妙なことに気づいた。署名と捺印の筆跡が違う。夫の名で書かれているが、印鑑はどう見ても本人のものではない。

「つまり…?」

「偽造の可能性があります」とサトウさんが断言した。

サトウさんの冷静な観察

「あなた、彼が亡くなった後にこれを出そうとしたんですね」

依頼人はうつむいたままだった。だが、その目の奥に、妙な期待が光っていた。

「登記簿に名前が載れば、それで全部変わると思ってたんですね」

この婚姻届、法的に無効では?

僕は慎重に言葉を選びながら伝えた。「すみませんが、この書類では効力の証明にはなりません」

だが彼女は揺らがない。「でも彼は…“私と婚姻する”と口で言ったんです」

「口約束では登記はできません」とサトウさんが言う。彼女は、うん、ともすんとも言わなかった。

元恋人の突然の来訪

さらに奇妙なことに、彼女の元交際相手を名乗る男が事務所に現れた。「あの書類、俺が書いたんですよ」

「えっ?」

男は続けた。「彼女がどうしても『婚姻届を書いて』って言うもんで。ジョークだと思って書いたんです」

「あれは恋ではなく契約だった」

「彼女は“恋を証明できれば遺産がもらえる”って言ってました。契約書みたいに」

つまり、恋の効力発生日ではなく、金の発生日を探していたのだ。

やれやれ、、、一体いつから恋がこうなった。

役所が出す驚きの一通の通知

数日後、役所からの文書が届いた。なんと、婚姻届はすでに数年前に提出されていたというのだ。

しかし、届出日と効力発生日が一致していなかった。

「え? 登録されたのに?」と僕は驚いた。

「受付日」はあるが「効力日」がない

「でもこれ、効力日未記入なので無効ですよ」とサトウさん。

「なのに登録されている…?」

「ええ、しかも婚姻相手が生きていた証拠も不明です」

登記簿の記録に残らない恋

結局、その婚姻は法的に認められないまま終わった。愛があったのか、なかったのかは誰にもわからない。

登記に記録されない感情は、法の世界では存在しないこととされる。

「やっぱり恋も、契約も、期限が大事なんだな」と僕はポツリと呟いた。

シンドウの閃きが空白を埋める

それでも、僕は書類の端に書かれていた一文字の染みを見逃さなかった。

「このインク…日付が消された跡かもしれない」

だが、それは証拠にならなかった。結局、恋の効力は宙ぶらりんのままだった。

最期に現れた証人の言葉

全てが終わったと思ったその時、ひとりの老人がやってきた。「あの二人、確かに結婚していたよ」

彼は、彼女の亡き“夫”の伯父だった。

「証拠なんてないけど、式も挙げたし、一緒に暮らしてた。まあ、登記なんてしてなかったけどな」

封筒に隠されたもう一通の婚姻届

彼は、古びた封筒を差し出した。「彼が死ぬ前に書いてた。出すなと言われてたけど…あんたらなら判断できるだろ」

そこには、効力開始日が明記された婚姻届が入っていた。

けれどもう、彼はこの世にいない。

結末と、シンドウのひとり言

封筒の婚姻届は提出されなかった。彼女はすでに相続権を諦めていた。

最後に、サトウさんが言った。「恋は登記できません。気持ちは残りますけど」

やれやれ、、、と僕は書類の山を見上げて、コーヒーをすすった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓