夜の事務所に鳴った一本の電話
夏とはいえ、夜半になると肌寒い風が窓の隙間から入り込む。疲れた目をこすりながら書類にハンコを押していたその時、事務所の電話が鳴った。 着信番号は非通知。夜中に電話なんて、ロクな話じゃない。 受話器を取ると、若い男の声で「至急、登記をお願いしたい」と震えた声がした。
依頼は「至急の登記」
曰く、今夜中にどうしても登記申請をしたいという。持ち込むのは所有権移転登記の申請書と委任状。 「今夜しか時間がないんです」そう繰り返す彼の声に、どうしても切迫感というよりも、どこか演技がかった響きを感じた。 だが、変わり者の依頼人は山ほどいる。うっかり承諾してしまった自分が悪い。
サトウさんの鋭い沈黙
隣のデスクのサトウさんは、まるでクイズ番組の答えを見抜いたような顔をして無言のままだった。 「行きますか」とだけ言い、彼女はバッグから手帳と電子印鑑を取り出した。 この人の勘の鋭さは、私が野球部だった頃のキャッチャーのサイン並みに信頼できる。
午前二時の依頼人
依頼人は、駅近くのコインパーキングで待っていた。濡れたスーツに泥のついた革靴。 渡された封筒の中には、申請書、委任状、登記原因証明情報が一式揃っていた。 ただ、一目見て違和感があった。委任状の署名が、まるで筆記体のように乱れている。
濡れたスーツと封筒の中身
封筒はやけに分厚かった。紙の湿気の具合からして、ついさっきまで持ち歩かれていたようだ。 しかも、なぜか一枚だけ茶封筒の中に別封された紙がある。それは、売買契約書の写しだった。 この手のケースはたいてい、何かを隠している時だ。
怪しい署名の筆跡
「この署名、どこかで見たことがある」 そう呟いたサトウさんが、スマホで過去の登記資料を検索している。 そして画面を見せながら「この人、三年前に筆跡鑑定で敗訴してます」と静かに告げた。
登記情報と一致しない所有者
申請されている不動産は、相続登記が未了のまま、古い名義のままだった。 それが一夜にして売買されるというのは、どう考えても不自然だ。 しかも、現在の名義人は東京に住んでいるはずなのに、委任状の日付は昨日の地元。
旧住所と一致する別人の存在
地番と表札の情報から、かつての所有者と同姓同名の別人がいることが分かった。 地元ではよくあることだが、今回はそれが“都合のいい偶然”として使われていたらしい。 委任状の署名も、どうやらそちらの人物が“協力”していたようだった。
やれやれ、、、まさかのパターン
ここまできて、ようやく全体像が見えてきた。 第三者を装って真の所有者に成り代わり、不正な売買を演出しようとした古典的な手口だ。 やれやれ、、、こういう夜中の仕事は、いつもろくなことがない。
サトウさんの仮説
「おそらく、あの男は代理人を装って登記を終わらせた後、即座に物件を転売するつもりだった」 サトウさんはそう言って、既にSNSで物件が出品されているページを提示してきた。 価格は破格。焦って売り抜けようという魂胆が透けて見える。
夜間登記の裏にある心理的トリック
依頼人は“夜だからバレない”とでも思っていたのだろう。 だが、この業界の裏技や抜け道は、むしろ日中よりも夜間の方が露見しやすい。 なぜなら、警戒している者しか夜は動かないからだ。
「これは偽造ではなく、誘導です」
「彼らは筆跡を誤魔化すのではなく、似た名前の人間を使って“納得させよう”としていたんです」 サトウさんの言葉は冷ややかだが、核心を突いていた。 そして彼女は、申請書を封筒に戻し、警察に連絡する準備を始めた。
登記簿の記録から消えた家
さらに調べると、その物件は三年前に競売にかけられていた記録が出てきた。 だが、現在の登記簿にはその記録が抹消されていたのだ。 つまり、誰かが書類上だけで“清算済み”にしてしまったらしい。
登記官との旧知の会話
翌朝、知り合いの登記官に話を通すと、やはり問題の物件には特異な記録が残っていた。 「これ、操作したの内部の誰かじゃないか?」 冗談まじりにそう言われたが、私も苦笑いしかできなかった。
真夜中の過去登記記録閲覧
ネット経由で閲覧できる登記情報から、数年前の閲覧記録まで追跡する。 どうやら依頼人は、複数の物件の名義を調べていた節がある。 これは単発ではなく、連続登記詐欺の一環だと推測された。
最後の対決と真実の署名
再度呼び出された依頼人は、驚くほど素直に観念した。 「バレないと思ったんです。本当に」 その言葉に、少しだけ哀れみを感じながらも、法は感情を許さない。
浮かび上がる「署名人」の正体
署名したのは実の兄だった。しかも、騙された形で協力させられていた。 兄弟間の確執と、過去のトラブルが全てつながった。 人間関係のドロドロが、今回の“偽装登記劇”の土台だったのだ。
封筒の中に隠された告白
最後に、申請書の裏面にもう一枚、手紙が挟まっていた。 そこには「もう後戻りはできない」という走り書きが残されていた。 悲劇か、犯行か、紙一重とはよく言ったものだ。
夜が明けて
朝日が事務所のカーテン越しに差し込んでくる頃、ようやく一息ついた。 サトウさんは無言でコーヒーを淹れ、私の机に置いた。 その手際の良さは、もう事件の一つみたいなものだ。
サトウさんの無言の労い
「ありがとうございました」と言う前に、彼女はすでに自席で次の仕事に取りかかっていた。 塩対応も、ここまで貫かれると清々しい。 やれやれ、、、少しは私にも優しくしてくれてもいいんじゃないか。
今日も変わらぬ朝のコーヒー
温かいコーヒーの湯気が立ち上る中、私は今日もまた、登記の海へと潜っていく。 この仕事に、正義も悪も曖昧だ。だが少なくとも、今日の登記は止められた。 次もまた、どこかの真夜中で、誰かが静かにペンを走らせているかもしれない。