消えた依頼人と一枚の紙

消えた依頼人と一枚の紙

朝一番の電話は不穏な予感

土曜の朝、まだ湯気の立つコーヒーに口をつける間もなく、事務所の電話が鳴った。画面には非通知とだけ表示されている。こういう電話に限って、ろくでもない。

受話器を取ると、男の震える声が聞こえた。「…委任状を送りました。それを使って、どうか、登記を…」それだけ言うと、ぷつん、と回線が途切れた。

やれやれ、、、朝からミステリードラマみたいな展開かよ、とぼやきつつ、カップを置いた。

委任状だけが残されていた

ほどなくして、ファックスの受信音が響く。紙がじりじりと吐き出され、そこには一枚の委任状が印字されていた。筆跡ではなく、明らかにワープロで作られたものだ。

しかし、依頼人の住所欄が空欄だった。それどころか、連絡先もない。残されたのは氏名と押印、そして「所有権移転登記申請を依頼する」という一文だけ。

誰の、どの物件の登記なのかも書かれていない。これはもう、依頼というより謎掛けに近い。

依頼人の正体が不明

普段ならこんなものは受け取らずに破棄するが、声の震えと異常な空白が気になった。書類にあった唯一の手がかりは「高井健一」という名前だけ。

不動産データベースを調べても、それらしい人物の情報は出てこない。登記簿にもいない。電話帳、商業登記簿、SNSすらヒットしない。

この名前は、まるで最初から存在しなかったような空虚さを持っていた。

サトウさんの冷静な推理

「高井健一って、偽名ですね」とサトウさんは言い切った。表情も変えず、マグカップを片手にパソコンの画面を操作しながら。

「フォントの設定がMS明朝ですけど、これはWindows98の標準設定。あと、日付が令和じゃなくて平成。つまり、古いテンプレ使ってますよ」

彼女の分析には、もはや敬意すら湧いてくるが、態度はいつも通り塩そのものだ。

旧式のファックスに潜んだ手がかり

サトウさんの提案で、ファックスの通信履歴を確認することにした。幸い、うちのファックスは10年前の機種で、履歴を残してくれるタイプだった。

そこには送信元番号が記録されていた。「084−9××−××××」と、見覚えのある市外局番だ。広島県の福山市あたりだったか。

あのあたりには、以前事件で関わった登記業者があったことを思い出した。

元野球部の勘が騒ぐ

昔の感覚というのは、不思議と体に残っている。球場でキャッチャーミットに吸い込まれたような打球の音、それと同じ直感が今、背中をざわつかせる。

「これは誰かが誰かになりすまして登記しようとしている」そう口にしたとき、自分でも驚いた。確証はない。ただ、気配だけが濃厚に残っている。

サザエさんの中島くんが「波平に変装したカツオ」を一発で見抜くような勘だ。

法務局で見つけた名前の矛盾

福山市の法務局に問い合わせると、確かに昨日付で所有権移転登記の受付がなされていた。しかし、申請人は「高井健二」。一字違い。

手書きの申請書だったそうで、字の癖を確認すると、例のファックスとそっくりだったらしい。偽名を使い分けている、あるいは本名すら存在しない可能性。

「この人、実在するけど、本当の名前じゃないってことですね」とサトウさん。

消えた依頼人が残した暗号

送信元番号を再度確認すると、最後の4桁が「4589」。この番号、どこかで見た気がする。引き出しの奥から、数年前の事件記録を取り出す。

そこにあった事件の相手方の電話番号と一致していた。彼の名前は「田村政人」、数年前に詐欺まがいの登記申請で業務停止を食らった人物だ。

「戻ってきたか、あの幽霊登記屋が…」と呟いたとき、頭の中で線が繋がった。

行きつけの喫茶店に隠された真実

地元の喫茶店「ナポリ」には、かつて田村がよく通っていた。試しに立ち寄ると、見覚えのある背中が奥の席にあった。だがこちらに気づくと、逃げ出す。

元野球部の意地で追いかける。商店街を抜け、裏路地に入ったところでようやく捕まえた。「…あんた、なんでまた俺に関わるんだ」

「逆探知だよ。お前の声と、委任状のにおいでな」と、昔の刑事漫画っぽくキメてみたが、サトウさんが後ろで白い目をしていた。

過去の登記と現在の書類が示すもの

田村の狙いは、既に死去した人物になりすまし、旧登記を使って所有権を不正に取得することだった。委任状はその手段のひとつに過ぎなかった。

しかし、かすかな筆跡の違いや通信記録が彼の嘘を暴いた。時代遅れの機器が、最新の詐欺を逆探知するとは皮肉な話だ。

「やっぱり紙って、嘘つかないですよね」とサトウさんが静かに言った。

サトウさんの一言で全てがつながる

「これ、相続登記を先に済ませてれば、こんなこと起きなかったんですよ」サトウさんの一言が、すべてを締めくくった。

確かに、放置された登記情報は犯罪者の格好の餌になる。現行の相続登記義務化が、こうした事件を防ぐことにつながると、改めて痛感した。

「でもまあ、義務化されてもやらない人多いんでしょうけどね」その冷めた目に、妙にリアルさを感じた。

電話の逆探知が導いた場所

田村はそのまま警察に引き渡され、ファックスの送信元番号と供述が一致したことで、立件に至った。逆探知というアナログな手段が功を奏した。

まるで昔の怪盗漫画で、最後に刑事が無線で追い詰めるあのシーンのようだ。

「時代遅れの機械とおっさんでも、たまには役に立つだろ?」とサトウさんに言ってみたが、無言だった。

やれやれ俺の出番か

事務所に戻り、ようやくコーヒーの残りを口にした。「ぬるっ…」とつぶやいたとき、サトウさんが新しいファイルを机に置いた。

「次の登記、準備できてます。これ、今日中でお願いします」いつも通りの塩対応。やれやれ、、、俺の休みはどこへ行ったのやら。

でもまあ、今日もひとつ、世の中の歪みを少しだけ正せたと思えばいいか。

依頼人の目的と意外な結末

田村の供述によれば、本当の目的は土地そのものではなく、そこに眠っていた貸金庫だったらしい。中には紙幣ではなく、旧い証書が入っていた。

「怪盗じゃなくて、ただの泥棒でしたね」とサトウさんが切り捨てるように言う。

怪盗キッドなら、もう少しスマートにやってくれただろうに、と俺はぼやいた。

すべては一枚の委任状から始まった

結局、この一件は一枚の委任状と、一本の逆探知から始まった。書かれなかった住所、記されなかった本音、その空白が全てを物語っていた。

登記の現場には、時にドラマよりも濃い物語が眠っている。そしてその裏には、誰かの嘘と、誰かの正義が交錯している。

やれやれ、、、また一枚、新しい事件簿が増えてしまった。

今日も事務所には平穏が戻る

午後になり、事務所にはまた静けさが戻ってきた。外では蝉の声が鳴いている。扇風機の風が、書類をひらひらとめくる。

コーヒーを淹れ直し、椅子に深く腰掛けると、ふと「今日はサザエさんの日だったな」と気づく。現実も、なかなかの長編シリーズだ。

それでも、誰かが困っていれば俺たちの出番だ。きっとまた、電話は鳴る。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓