登記室のペンは嘘をつく
静かな雨と静かな依頼
朝から冷たい雨が降っていた。事務所の窓に小さく打ちつけるその音が、依頼人の声よりもはっきりと耳に残っている。中年の男が差し出したのは、土地売買の登記申請書だった。
一見、何の変哲もない書類。でも、僕の目の端には何かがひっかかっていた。
そしてそれは、事務所の片隅でいつものように書類をスキャンしていたサトウさんの、あの無表情な横顔にも浮かんでいた。
サトウさんの目が止まった文字
「この筆跡、二種類ありますね」サトウさんが静かに言った。僕が慌てて書類を覗き込む。たしかに、委任状の署名欄と申請書の筆跡がわずかに違っている。
「やれやれ、、、また妙な相談だ」と僕はつぶやいたが、正直なところ内心はワクワクしていた。何かが起きる気配がする時、人はどこか昔のアニメの探偵みたいな顔になる。
でも現実はそんなにかっこよくない。僕はただの司法書士。拳銃もスケボーもない。
書類に現れた二つの筆跡
委任状の署名はゆるやかで、角が丸い。だが、申請書の署名は線が硬く、妙に角張っていた。筆跡鑑定などできるほどの知識はないが、少なくとも同一人物が同じ時間に書いたものには見えなかった。
「これは、、、筆跡偽造の可能性があるな」僕が言うと、サトウさんは「ようやく気づきましたか」という顔をして書類をコピー機にかけた。
まるで、犯人の痕跡を炙り出すキャッツアイみたいな動作だ。
「委任状」と「申請書」の違和感
依頼人に話を聞いてみた。「妻に頼まれて書類を持ってきただけです」とのこと。名前を書いた記憶はあるが、申請書には見覚えがないという。
僕の中で点と点がつながり始めた。委任状だけを本人が書き、申請書は別人が用意した? つまり、誰かが勝手に登記を進めようとしている?
しかし誰が? 何のために? それを考えるのが、僕の仕事だ。
実印と認印の罠
押印も確認してみる。委任状にはしっかりとした実印があったが、申請書の印影は微妙に違っていた。専門家でなくても、朱肉のにじみ具合が違うのは分かる。
「印鑑登録証明書、取ってきていただけますか」サトウさんが依頼人にさらりと言った。まるでお茶を頼むような自然さだった。
そして僕は、登記が一歩も進まないまま考え込む。やれやれ、、、今日も終わらなそうだ。
売買か贈与かそれが問題だ
登記理由は「売買」と書かれていたが、依頼人に確認すると金銭のやり取りはしていないという。つまりこれは「贈与」か「名義変更」だ。だとすれば、登録免許税も変わってくる。
「こんな間違いを、奥さんがするか?」僕は自問した。仮に彼女が申請書を用意したとして、それならば逆に完璧な書類を作ってきそうだ。
つまり、黒幕は別にいる可能性がある。
元持ち主が語った真実と嘘
電話で元持ち主にあたる女性に連絡を取った。「あの土地は私が手放したわけではありません」ときっぱり言い切った。
しかしその後、「主人がいろいろやっていたようで、、、」という言葉が続いた。どうやら、夫が勝手に進めた話らしい。
そしてそれを阻止しようとしていたのが、今回の依頼人。彼は、妻の不正に気づいていた。
サザエさんの書き文字は丸い
サトウさんが「この委任状、どこか見覚えある字体ですね」と言った時、僕は思わず声を上げた。「サザエさんだ!」と言ったら、サトウさんは一瞬だけ目を見開いた。
いや、正確には、サザエさんのオープニングに出てくる提供バックの文字だ。丸くて優しい字体。それと同じクセが、この委任状にあった。
つまり、委任状は依頼人本人ではなく、彼の娘が代筆した可能性がある。
字が語る心理状態という推理
人間は、追い詰められると筆圧が変わる。娘が書いたとしたら、誰かに指示されたか、あるいは脅されたか。
サトウさんが持っていた別の事件記録に、同じ筆跡の書類があった。それは過去に無効とされた登記申請書だった。
つまり、この娘は、過去にも同様の問題に関わっていた可能性がある。
うっかり僕が見逃した一枚の写し
古い案件のファイルを漁っていて、偶然、一枚のFAXコピーが出てきた。それは今回の申請書と同じレイアウトだった。
「やっぱり、、、使い回しだな」僕はそう呟き、うっかりと提出前に目を通していなかったことに気づいた。ああ、元野球部でもキャッチミスはする。
でも試合はまだ終わっていない。
サトウさんの乾いた声と鋭い指摘
「この申請、無効を申し立てましょう」サトウさんの声はいつにも増して冷たかった。感情を表に出さないが、怒っているのがわかる。
僕は頷き、法務局に対して正式な申立てを出す準備に入った。書類は完璧に揃え、あとは事実を一つずつ重ねていくだけだ。
相手の裏をかくなら、先に光を当てる。それが僕らのやり方だ。
消せないインクと消せる証拠
筆跡を消すことはできない。けれど、真実を隠すために人は証拠を捨てようとする。今回のケースでも、あらゆる書類が一部ずつ欠けていた。
でもサトウさんは、それらの欠片を一つずつ拾い上げ、形にしてみせた。まるで、ルパンの不在証明のように完璧だった。
僕はその背中を見ていた。
法務局に眠るもう一つの登記記録
法務局に確認を入れたところ、別の申請が数日前に却下されていた。それは今回の土地と同じ場所で、まったく同じ文面だった。
つまり、誰かが何度も申請を繰り返していた。そしてその誰かは、別の名前を使って登記を完了させようとしていた。
登記の世界にも、偽名が使われる時代になったのだろうか。
謄本が導いた家族の別れ
最終的に、登記は却下された。依頼人は静かに礼を述べて帰っていった。あの土地は妻の父が残したものだったという。
娘はそれを売り払って、逃げるつもりだったのかもしれない。家族の亀裂は、筆跡という形で表に出た。
「字って、怖いですね」サトウさんが小さく言った。
結末は静かに誰にも告げずに
誰にも語られることのない事件。でも、僕の中では、確かに一本の物語として残った。雨は止み、夕方の光が少しだけ差し込んでいた。
やれやれ、、、結局、今日は昼飯も抜きだった。
明日は、もっと簡単な相談が来てほしいものだ。