登記簿に消えた朝

登記簿に消えた朝

法務局の静かな朝

午前九時ちょうど。法務局の自動ドアが開く音が、やけに重く響いた。夏の朝とはいえ、空気は冷たく張り詰めている。静かなロビーに一歩踏み出した男は、まるで空気の一部を連れてきたようだった。

その姿は、地味なスーツに古びた革鞄、そしてどこか所在なげな目。受付の女性が声をかけようとするより先に、男は封筒を一つ、窓口に滑り込ませた。

九時ちょうどの依頼人

「相続登記の相談です」と、その男は静かに言った。だがその申請書類には、いくつかの違和感があった。まず、日付のズレ。さらに、相続人欄にあるべき印鑑証明書が見当たらない。

僕はいつものように苦いコーヒーを啜りながら、資料に目を通していた。依頼内容は単純な相続登記だというのに、直感がざわついた。

窓口に置かれた謎の封筒

封筒の中身を確認すると、古い戸籍のコピーと土地の登記事項証明書が入っていた。が、どちらも妙に新しい。紙が妙に白く、印刷のトーンも鮮明すぎる。誰かが「古さ」を演出しているのか?

「サザエさん一家の家系図を無理やり書き換えたような違和感がありますね」と、隣でサトウさんが呟いた。比喩はともかく、核心を突いていた。

一枚足りない登記申請

申請書の不備は目立たないが、確実に意図されたものだった。必要書類のリストにはあるはずの「所有権移転登記原因証明情報」が見当たらない。

「これは提出を“し忘れた”んじゃなくて、“しなかった”ですね」とサトウさんが淡々と言う。やれやれ、、、またか、と思いながら僕は席を立った。

古びた公図と消えた所有者

法務局で閲覧した公図には、赤で訂正された跡があった。しかも二重線ではなく、何かを「塗りつぶす」ような修正。こういうのを見ると、まるで怪盗キッドが痕跡を残さずに金庫をすり替えた後のようだ。

元の地番を追っていくと、三年前に一度所有権が移転していることがわかった。しかし、その登記は申請ミスとして却下された形跡が残っていた。

サトウさんの冷静な分析

「誰かが、登記をわざと通さなかったのでは?」と、彼女は言った。たしかにその通りだ。この相続には、まだ現れぬ別の相続人がいる可能性がある。だが、封筒の依頼人は何も語らなかった。

「無言の申請ほど、語るものは多いです」とサトウさん。やはりただの塩対応ではない、鋭さに少し感心する。

元野球部の勘

「変化球に見える直球」がある。まさに今回の件がそれだった。妙に素直な提出書類、どこにも目立った嘘はない。しかし、だからこそ違和感があった。

高校時代のキャッチャーが言っていた。「クセ球は見抜けても、クセのない球の方が怖い」。あの時の感じと、同じだ。

控え室で見た違和感

法務局の控え室、コピー機の横に置かれていた一冊のノートに目が止まった。来訪者がメモを取るためのものだが、そこには「昨日も同じ資料を提出した」という走り書きが。

依頼人は「初めて来た」と言った。しかし、この筆跡、見覚えがある。どうやら昨日の午前中にも同じ人物が来ていたらしい。

やれやれ、、、また厄介ごとか

頭をかきながら、僕は窓の外を見た。雲一つない青空。事件が起こるときは、だいたい晴れてる。雨の日は事務仕事が捗るだけだ。

「シンドウさん、もしかして、本人確認を装って別人が提出したってことは?」と、サトウさんがまた淡々とした声で言う。やれやれ、、、これは確かに、やっかいだ。

古文書の筆跡と今の印鑑

昔の遺言書にある署名と、現在提出された書類にある筆跡がまるで違う。しかも、印鑑の押し方が“左利き”特有の角度だった。これは決定的だった。

依頼人は右利き。ということは、この書類は別人が代筆し、印鑑を偽造して提出したものに違いない。

筆跡鑑定の落とし穴

筆跡鑑定を司法書士が直接扱うことは少ないが、僕にはちょっとしたクセを見る目がある。昔、サイン盗み見が得意だった野球部時代の名残か。

「“の”の字のハネ、これが違うんですよね」と僕が言うと、サトウさんはうっすらと微笑んだ気がした。たぶん気のせいだ。

再来した依頼人の正体

翌朝、同じ時間に同じ男が再び現れた。が、前回とは顔つきが違う。いや、よく見ると“似ているが別人”だった。まるでアニメの二重人格設定みたいな展開。

兄弟か、双子か。調べてみると、依頼人には実際に双子の兄がいた。そして兄の方はすでに亡くなっているということだった。

「昨日は来ていない」と言った男

「本当に昨日は来ていないんです」と男は言った。しかしそれが嘘だという証拠は、控え室のメモ帳に残っていた。決定的証拠ではないが、導火線にはなった。

「じゃあ誰が昨日来たのか、僕に教えてくれませんか?」と尋ねると、男は一瞬だけ目をそらした。図星だった。

真相は複数の登記名義

土地には兄名義と弟名義が両方仮登記されていた。つまり、どちらが本来の相続人かを争う意図が、最初から存在していたのだ。

封筒の中の登記情報も、双方の利益を巧妙に調整した“偽装”のものだった。目的は相続権の単独取得。まるでキャッツアイの如く、記録をすり替えるトリック。

誰が本当の所有者か

結局、弟が兄になりすまして登記しようとしていたことが発覚した。意図的な提出と、偽造された印鑑、そして筆跡。すべてが繋がった。

だが、申請は却下された。法務局の判断は、正しかった。僕たちはその流れを少しだけ後押ししたに過ぎない。

封筒の中の遺言書

最後に明らかになったのは、父親の遺言書だった。封筒の底に、まるで隠すように折られて入っていた。

「すべての土地は兄に」と、そこには明記されていた。弟がそれを知っていたのかどうかは、今となってはわからない。

隠された親族関係

後日、親族の一人がひっそりと僕の事務所に来てこう言った。「実は兄と弟は、母親が違うんです」。戸籍上では兄弟でも、複雑な事情が裏にあった。

だからこそ、争いは表に出なかった。いや、出せなかったのかもしれない。

結末の登記簿記載

事件の翌週、正式な相続登記が完了した。所有者は亡くなった兄の配偶者となった。法務局の記録には、静かにその名が加えられた。

朝の法務局は、再び静けさを取り戻していた。だが、あの窓口に置かれた一通の封筒が、確かに誰かの運命を変えたのだ。

正しい所有者の記録

「登記簿は正直だ。だが、そこに至る人間の思惑は、いつも複雑だ」。僕は窓際の机で、またコーヒーを啜った。苦味がやけに心地よい。

サトウさんは黙って報告書をまとめていた。やれやれ、、、たまには野球中継でも観たいところだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓