封印された登録簿
その朝、蒸し暑さにうんざりしながら事務所の扉を開けた瞬間、電話が鳴った。妙に早い時間の電話に、嫌な予感しかしない。僕の予感は、十中八九、当たるのだ。
電話の主は市内の法務局登記官、三浦という中年の男だった。彼の声は震えていた。「登記簿が、勝手に…いや、詳しくは来ていただけませんか」
サトウさんはすでに席についていたが、顔を上げることもせず「どうせまた何か巻き込まれたんでしょう」と言った。
午前九時 登記所からの奇妙な電話
法務局の地下にある金庫室は、通常なら朝一番に開かれ、担当者が登録簿や押印具を取り出す。しかし今朝は違った。金庫は開いていた。鍵は内側から開けられた形跡があった。
さらに不可解なのは、一冊の登録簿だけが机に置かれており、そのページには鮮明な「印」が押されていた。だが、その印は誰のものでもなかった。登録官の三浦が言うには、「この印影は、昨日までは存在しなかった」というのだ。
印影を確認すると、確かに正規の印ではない。だが、その配置や形は異様に正確で、まるで本人が押したように見える。それが何よりも不気味だった。
開かれたはずの金庫
事務所に戻り、サトウさんに状況を説明すると、彼女は「まるでミステリー漫画の一話みたいですね」とつぶやいた。僕はと言えば、ファイルをひっくり返しながら「やれやれ、、、」とこぼした。
この時点で三浦登記官が何かを隠しているのは明らかだった。彼の机には、なぜか相続登記に関する古い申請書が山積みになっていた。そのうちの一枚だけが日付も押印も異なっていた。
その書類には、”故 鶴見順一” の名があった。確か、5年前に登記を終えたはずの人物だった。
不自然に残された押印
押印の位置、書類の様式、インクの濃さ。司法書士としては、それらが違和感の源になる。僕は鶴見の登記書類の写しを手に、再び登記所へ向かった。サトウさんは、「私が行った方が話が早いでしょう」と言ったが、断った。男のメンツである。
三浦の机にあった印章は、彼の登録印とは微妙に異なっていた。明らかに偽物だ。だが、それを誰が、なぜ残したのかはわからない。
机の隅に、古びたサザエさんカレンダーが置いてあるのが目に入った。日付が、去年の8月で止まっていた。
消えた登記官と最後の申請書
翌日、三浦登記官は出勤してこなかった。代わりに現れたのは彼の上司で、厳しい顔つきの女性官吏だった。机の上にあった申請書も、封印された登録簿もすべて引き上げられたという。
だが、サトウさんが一枚だけスキャンしていた。その画像には、修正液のような白い痕跡が映っていた。「これ、元の押印を消した後に別のを押したんですよ」彼女は画面を拡大しながら淡々と言った。
「この印、横幅が一ミリ違います。だから本物じゃない」――なるほど。そこに気づくとは。さすがだ。
サトウさんの冷静な観察
調査を進めるうち、過去に鶴見名義の土地で不審な売買が行われていたことが判明した。売主は既に死亡していたのに、直近の登記では存命のように扱われていた。
「つまり、亡くなった人の名義を使って土地が動かされてる?」僕が尋ねると、サトウさんは頷いた。「偽造された押印で申請されたのなら、それも可能でしょうね」
この時点で僕の頭には、ある仮説が浮かんでいた。それは、三浦登記官が偽造に手を染めたのではなく、何者かに脅されていたのではないかということだった。
謎を解く鍵は過去の相続登記
登記簿を追っていくと、不審な共有名義の土地が次々と見つかった。そのすべてに共通していたのは、書類が三浦の担当期間に処理されていたこと。
「まるでルパンが自分のサインだけを残して宝を盗んだみたいですね」サトウさんが皮肉を言った。僕は言い返す余裕もなく、黙って頷いた。
やがて、三浦が逃亡中に残したメモが見つかった。「印は最後に押された。それが合図だった」とだけ記されていた。
コピー用紙に残された記憶
最後の証拠となったのは、申請書の裏に写っていた炭素のコピー跡だった。それを浮かび上がらせるため、僕はサトウさんと共に事務所で炙り作業を試みた。
すると、「鶴見順一 死亡届未提出」と書かれた文字が現れた。偽造登記の根拠が、ここにあった。
三浦は、それに気づいたが、提出をためらったのだろう。理由はわからないが、きっと良心が痛んだに違いない。
偽造された印影と本物の行方
三浦の本物の印影は、別の申請書と一緒に役所の旧庁舎の倉庫に眠っていた。それが発見されたことで、彼の潔白が証明されつつあった。
彼を脅していたのは、登記代理を請け負っていた不動産ブローカーだった。元野球部という肩書きで、まるで人を強打で押し切るようなやり口をしていた男だ。
「こいつ、キャッツアイに出てきた怪盗のように、証拠だけを消して回ってたんですね」とサトウさんが言った。
封印された登録簿の裏側
事件の全貌が明らかになると、役所は一斉に内部監査を始めた。封印された登録簿は、証拠として警察に引き渡された。
しかし、システムの穴や古い手続きが事件の温床になっていたことは否定できない。そこに僕ら司法書士が無力であったことが、何より悔しかった。
「やれやれ、、、こっちは夏バテしてるヒマもないか」僕は一人、事務所の冷たい麦茶を飲み干した。
登記官の告白と不正の構造
後日、三浦から手紙が届いた。そこには「正しいことをしたいと思っていたが、怖かった」とだけ記されていた。
人は弱い。だが、その弱さの中にも真実を守ろうとする力があることを、彼の選択が教えてくれた。
僕らが本当に守るべきは、手続きの形式ではなく、その先にある人の誠意だ。司法書士とは、そういう職業だと改めて思った。
サトウさんの一撃とシンドウのぼやき
「でも結局、何も食べてないじゃないですか。ほら、顔が疲れてますよ」
サトウさんの指摘に、僕は黙ってカップラーメンにお湯を注いだ。「やれやれ、、、事件は解決しても、胃袋は空のままだ」
彼女は冷蔵庫からプリンを取り出し、自分だけ食べ始めた。塩対応というより、もはや塩そのものだ。
再び平穏な登記の日々へ
事件から数週間後、事務所には通常の依頼が戻ってきた。どこかホッとする日常だ。相続、売買、抵当権抹消――どれも地味だが、確かな意味がある。
「今日は午後から農地法の相談です」
サトウさんの声に、僕は肩を回しながら立ち上がった。「やれやれ、、、今度は寝かせてくれ」