筆跡の向こうにいた男

筆跡の向こうにいた男

筆跡の向こうにいた男

司法書士としての朝は、電話のベルで始まることが多いが、今朝のそれは妙に耳に残った。受話器越しに響く男の声は震えており、何かを恐れているようだった。

「売買契約書に、俺の署名があるんです。でも、俺、書いてないんですよ」

その一言で、私の一日はまたしても平穏とは無縁の方向へと舵を切った。

朝一番の電話

電話の主は不動産売買の当事者である田中という男。契約書に自分の署名があるのに、記憶にないという。おまけに、物件の名義はすでに買主に移っていた。

「まるで、カツオが波平の代わりに通知表にハンコ押したみたいな話ですよ」

と私がぼやくと、電話の向こうからは苦笑すら漏れなかった。

契約書に書かれた違和感

FAXで届いた契約書のコピーを見て、私は眉をひそめた。文字は確かに整っているが、何かが違う。パッと見では気づかないが、細部が不自然だった。

丸みを帯びた筆跡、わずかな跳ねの癖。私の記憶の中にある田中の署名とは異なる。

「これは……誰かが似せて書いたものかもしれませんね」サトウさんがそう呟いた。

依頼人の証言

田中が事務所に現れた。三十代後半、疲れた表情で「覚えてない」の一点張りだった。

しかし話を深掘りすると、「あの日は、体調が悪くて会社を早退した」など曖昧な記憶ばかり。サインをした場所も時間も、何一つ思い出せないという。

やれやれ、、、こういうときの証言は当てにならないと、私は溜め息をついた。

「私は書いていません」

「でも、本当に俺は書いてないんです」田中は繰り返す。

「その証明、難しいですね」私が言うと、彼は机を握りしめた。「嘘じゃないんです」

彼の目は真剣だった。私は、嘘をついている顔ではないと感じた。

筆跡鑑定という壁

筆跡鑑定を依頼することも考えたが、民間の鑑定士に頼んでも裁判では証拠として弱い。

しかも今回のように似せた署名の場合、専門家ですら断定が難しい。

私は、過去の記録を調べるという別のアプローチを試みることにした。

専門家の見解とその限界

「これは本人のものである可能性が高いですが、断定はできません」

鑑定士からの冷たい一文に、私は机に突っ伏した。

法律とは時に、こうも頼りないものなのか。

過去の登記に潜む記録

田中が過去に関与した登記案件を調べるため、法務局の端末を操作した。

十年前、彼の名義でされた共有名義解除の登記があった。そこに添付された委任状の署名を見て、私は目を見開いた。

「これだ…!」思わず声が漏れた。

十年前の同じ署名

そこにあった筆跡は、今回の契約書に書かれたものとまったく同じだった。

筆跡の癖だけでなく、署名の位置や余白の使い方まで一致している。

まるで同じ人間が、同じように筆を走らせたようだった。

サトウさんの鋭い指摘

「この人、誰かに代筆を頼んでたんじゃないですか? 昔から」

サトウさんの冷静な一言が、思考の霧を晴らした。

代筆者。それこそが、この事件の核心だったのだ。

書いた人間は誰なのか

十年前の登記も、今回の契約も、代筆者が同じなら話は簡単だ。

私は田中に過去の登記の際に立ち会った人物について尋ねた。

「たしか、当時の会社の上司が……」田中は顔を曇らせた。

やれやれという前に

一息つこうと事務所でカレーうどんをすすっていたら、汁がシャツに飛んだ。

「シャツ、替えあるんですか?」サトウさんの目が冷たい。

「……やれやれ、、、こんな日に限って」と私はシャツの汚れを眺めながら呟いた。

昼休みのカレーうどん事件

それでもカレーうどんはうまかった。考えることを止める時間も、時には必要だ。

私はふと思った。上司が代筆したとすれば、それは指示か、好意か。

そして、そこに悪意が入り込んだのはいつからだったのか。

浮かび上がる不審な動機

田中の元上司、現在は独立して不動産会社を立ち上げているという。

過去に何度も部下の契約書を「勝手に整えていた」との噂もある。

「今回もその延長か……いや、今回は違う」

金銭ではない理由

調べると、今回の物件には開発計画が絡んでおり、短期間で転売されていた。

誰かが勝手に契約を進めれば、大金が動く。田中を外したのは、利益のためだ。

「やはり動機は金か……」私は唇を噛んだ。

司法書士としての一手

私は、過去の委任状の写しと今回の契約書をまとめ、関係機関に報告書を提出した。

民事だけでは済まない。これは文書偽造の疑いがある。

司法書士として、私ができることはやった。

委任状とその裏側

田中に確認すると、上司に「何もわからなくてもハンコ押しとけ」と言われていたという。

彼は、自分が被害者であることにようやく気づいたようだった。

「申し訳なかった」と何度も頭を下げた。

サインの意味

名前を書くということ。それがどれだけ重い意味を持つか、忘れがちだ。

誰かの手で書かれた文字に、どれほどの信頼を置いていいのか。

今回の事件は、それを改めて突きつけてきた。

その場にいなかった男

元上司は取材拒否を貫いたが、契約当日の現場にはいなかったことが判明した。

にもかかわらず、彼の筆跡が契約書に残されていたのだ。

法の裁きはこれからだが、少なくとも事実は明らかになった。

対決の日

証拠を持って、関係者を交えての協議が行われた。

元上司は最初こそとぼけたが、筆跡の一致を突きつけられ、ついに口を開いた。

「あいつは自分じゃ何もできないと思って、代わりにやってやっただけだ」

静かな真実の告白

それは傲慢だった。信頼ではなく、支配でしかなかった。

その言葉に、田中は黙って頭を下げた。怒りではなく、深い悲しみのようだった。

私は、司法書士としての立場で、それを見届けた。

サトウさんの一言

「机の中、見ました?」とサトウさんが言う。

引き出しを開けると、古い委任状の原本が入っていた。決定的な証拠だった。

「あんた、うっかり見逃すとこでしたね」と笑いもせず彼女は言った。

「証拠は机の中です」

キャッツアイじゃないんだから……と私は苦笑した。

でも、サトウさんがいなければ、この事件も迷宮入りだったかもしれない。

まったく、頼れる事務員である。

事件の結末

元上司には厳重注意が入り、今後の業務には制限がかかることとなった。

田中は、再発防止のためにも署名の重要性を社内で啓発すると言って帰っていった。

法は冷たいが、それを動かすのは人だ。私はその重さを改めて思い知った。

法の下に届く筆跡

契約書に残された文字は、法の手によって意味を変えた。

ただの名前ではなく、責任と真実の証として。

私は、ペンを手に、次の案件へと向かった。

事務所の静けさ

日が落ち、事務所には静けさが戻っていた。

書類の山は相変わらずで、私のやるべきことは尽きる気配がない。

それでも今日は、いい仕事をしたと自分に言い聞かせることにした。

戻ってきた日常

サトウさんはすでに帰っていた。机の上には、整理されたファイルが積まれていた。

私はそれを眺めながら、今日一日の出来事を思い出していた。

やっぱり、彼女はすごい。……そして、私はちょっとだけ疲れた。

やれやれ今日も疲れた

私は椅子に身を沈め、大きく背伸びをした。

机には、昼にこぼしたカレーうどんの汁が、まだ乾かぬままに残っていた。

やれやれ、、、シャツも机も汚れたが、今日の事件はきれいに片付いた。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓