依頼は静かに始まった
午前10時。古びた事務所の扉が控えめに開いた。入ってきたのは、腰の曲がった高齢の女性だった。手には封筒をぎゅっと握りしめていた。 「相続のことで……」と小さく呟いたその声は、なぜか言い淀みながらも、強い決意を帯びていた。
古びた家屋と高齢女性
彼女の話によれば、亡くなった兄の家を整理していたところ、登記簿の名義が父親のままだったという。相続人として彼女と弟がいるが、弟は十数年前に家を出たきり、音信不通だという。 「このままじゃ売れないでしょう? 解体もできないし……」と、苦笑いを浮かべていた。
相続登記の裏に隠された空白
戸籍を取り寄せると、たしかに弟の記録はあった。だが、その後の足取りが一切ない。除籍もされていなければ、死亡の記載もなし。まるで時間に取り残されたかのように、書類の中で彼は生き続けていた。
不審な電話と不可解な沈黙
弟の名前で検索をかけたが、まったくヒットしない。FacebookもLINEも、行政の記録すらない。だが、事務所に戻ると、一本の無言電話が鳴っていた。 ナンバーディスプレイに残された番号は、公衆電話だった。
名義人の足取りは不明
近所の人々に聞き込みをしても、弟の姿を見た者はいないという。ただ、十年ほど前に、夜中だけ灯りがともる家を見たという話がいくつか寄せられた。 だが、それももう何年も前の話だ。
登記簿に現れた消えた住所
一つだけ妙なことがあった。登記簿には、弟の現住所として「○○市××町」の住所が記載されていた。だが、その番地は現在の地図に存在しない。 都市計画で再編された区域で、数年前に地番が整理されていたのだ。
サトウさんの調査メモ
いつものように無表情で書類を捌くサトウさんが、ふとファイルを差し出した。「これ、行政資料のアーカイブに残ってました」 そこには、再開発前の地番図と、謎の空き家登録の記録が含まれていた。
行政文書と空き家バンクの照合
空き家バンクに登録されていた建物のひとつが、まさにその「存在しない住所」と一致した。 取り壊し予定だったその家は、なぜか解体されることなく残っていたという記録が添えられていた。
地元役場職員の証言
役場の職員は苦笑しながら言った。「ああ、その家ね。夜だけ灯りがついてるって噂、ありましたよ。でも、誰も住んでるところを見たことないんです」 まるで都市伝説のような話だった。
近隣住民が語る失踪の記憶
隣家の住人は、かすかに記憶をたどるように語った。「昔、その家にいた男性、買い物は深夜にしか行かなかった。まるで人を避けるように……」 その言葉に、胸の中で何かが引っかかった。
昼間だけ現れる謎の男性
さらに別の証言が加わった。「昼に見ると誰もいない。でも夕方になると、誰かが帰ってきた跡がある。靴の向きが変わってたり、ポストが空になってたり……」 それは、まるでゴーストのような生活だった。
過去の火災と焼け跡の記録
古い新聞の縮刷版を調べると、五年前にその周辺で小さな火災が起きていたことがわかった。出火原因は不明、けが人なし。だが、その日を境に灯りが消えたという。 彼はその火事で……?
真夜中の現地確認
サトウさんに背中を押される形で、深夜に現地へ赴いた。月明かりに照らされた家は、不気味なほど静かだった。 玄関は施錠されておらず、少し力を入れると軋む音を立てて開いた。
廃屋に残された生活の痕跡
中は埃っぽいが、誰かが暮らしていた痕跡があった。新聞は火災の直前で止まっている。冷蔵庫は空っぽだが、洗面所の歯ブラシは2本あった。 まるで、誰かと共に暮らしていたかのようだった。
トランクルームの鍵と古い封筒
押し入れの奥から、古びた鍵と封筒が出てきた。差出人は「兄へ」とだけ書かれていた。開封すると、走り書きでこう記されていた。 「もう、俺は限界だ。すまない」 やれやれ、、、また重たい案件だ。
司法書士の勘が導く矛盾点
そこから事態は急展開を迎えた。鍵は近くのトランクルームのもので、そこには弟の生活用品が段ボール三箱分保管されていた。 明らかに「逃げる準備」だった。
相続放棄の届け出の不一致
役所に問い合わせると、なんとその弟はすでに相続放棄の届け出を出していた記録があった。ただし、提出者の筆跡が明らかに本人と異なっていた。 誰かが偽造していた可能性が高まる。
死亡診断書の発行日が語るもの
調査を続けるうちに、五年前に発行された無縁仏の死亡診断書と一致する人物が見つかった。名前は伏せられていたが、特徴が一致していた。 彼は火事の夜に……。
決定的証拠は登記簿の中に
登記簿の売買履歴を見ると、一度だけ第三者の名義が数日だけ入っていた。おそらく偽造書類を使った名義変更だ。そしてすぐに元に戻されていた。 隠蔽工作にしては粗雑すぎる。
合筆された土地と謎の売買履歴
その名義人が使っていた印鑑証明は、すでに失効していたものだった。これは完全に違法登記だ。警察に連絡を取り、正式な調査が開始された。
印鑑証明の発行元の違和感
最後の一手は、サトウさんが気付いた。「この証明書、出した役所が登記簿の住所と合ってません」 つまり、それは偽造証明書だった。
サトウさんの突き刺さる一言
「やっぱり、家族間での偽装って、根が深いですね」 彼女の言葉に、思わず背筋が寒くなった。 「人は、身内だからこそ騙せる。そういう話、珍しくないですよ」
「これ不正登記の匂いがしますね」
サトウさんの言葉通り、今回の件は、身内による不正な名義変更と登記簿の偽造が絡む案件だった。 司法書士という職業の責任の重さを、あらためて痛感させられる出来事だった。
冷静な分析と沈黙の証明
最終的に、弟は火災で亡くなっていたことが確定し、相続登記は法的に整えられた。依頼人は深く頭を下げて去っていった。 ただ、彼女の瞳の奥に、どこかしら寂しさがあったことが忘れられなかった。
認知症と家族の沈黙
彼女の兄は生前、軽度の認知症を患っていたらしい。弟との軋轢は深く、金銭的なトラブルも抱えていたという。 それでも家族であることを、最後まで否定しなかった。
被相続人が最後にいた場所
焼け跡に残されていた歯ブラシと、冷蔵庫の中の唯一の食品「プリン」。 それは、家族のわだかまりと、どこか残る優しさの象徴だったのかもしれない。
意図的な隠蔽かそれとも保身か
家族が真実を隠そうとした理由。それは、恥だったのか、恐怖だったのか。 結局、それを知る者は、誰もいなくなってしまった。
結末は法の下に
最終的に、登記は無事完了した。だが、解決したはずの事件は、心の中に妙な重さを残したままだった。 「登記簿は嘘をつかない」そう言い聞かせながら、俺は次の依頼書に目を通した。
登記是正と刑事告発の間で
警察の捜査は続いているが、関与者がすでに他界していることもあり、刑事責任の追及は難しいらしい。 俺の役目は、登記を正しくすること。それだけだ。
依頼人の本当の願い
「兄の家を壊す前に、ちゃんと向き合いたかったんです」 依頼人のその言葉が、唯一の救いだった。 やれやれ、、、たまには感情を動かされるのも悪くない。