届いた封筒とその中身
朝のコーヒーに手を伸ばした瞬間、ポストに届いた分厚い封筒に目が止まった。差出人の記載はあるものの、どこかで見たような名字が引っかかる。封を切ると、中からはたった一枚の紙が滑り出た。
それは、白紙の委任状だった。日付欄も、依頼内容の記載もない。唯一記されていたのは、まるで消えかけたような筆圧の署名だった。
「これは、いたずら…じゃないな」独り言をつぶやきながら、私はその紙片を手帳に挟んだ。
封を切った日常の中の異物
封筒に使われていたのは、どこにでもある茶封筒。だが妙に端が濡れていた。まるで涙の跡のようにも見える。それが意図的か偶然かはわからない。
日常に突如混ざり込んだ異物。それは、私のような司法書士にとっては、事件の予感に他ならなかった。
まるで、サザエさんの世界に次元大介が登場してしまったような、そんなミスマッチな不穏さを感じた。
署名も依頼内容もない謎の委任状
白紙というのは、時に強烈な意志の象徴だ。書くことすら許されない、あるいは書くことができなかった理由が、そこにあるはずだ。
署名欄には「ツチヤ アキ」とあった。記憶のどこかに引っかかる名前だが、思い出せない。
手帳にメモしながら、私はサトウさんの無言の視線に背中を押された気がした。
依頼人は誰なのか
私は登記簿を検索しながら、可能性のある「ツチヤ」姓を洗い出していった。過去の登記データベースを辿る作業は、昔のアルバムをめくるような感覚だった。
ふと、ある物件の所有権移転登記に「土屋晶子」という名前が見えた。それは十年以上前の、ある相続案件だった。
登記の完了処理は、当時の私がやっている。つまり、この依頼人は、かつての依頼人なのだ。
差出人欄に記された旧姓
封筒に記されていたのは「カワサキ」という名字。婚姻によって改姓したのだとすれば、同一人物の可能性が高い。
離婚か、それとも死別か。改姓の理由まではわからないが、そこに人生の節目があったことだけは読み取れる。
私はふと、手元の白紙の委任状に目を落とした。それは、未完了の約束のように思えた。
登記簿の奥に眠る記録
該当する住所の謄本を改めて確認すると、一件の仮登記が残されていた。条件付きの所有権移転、それが実行されぬまま放置されていたのだ。
それは、故人の遺志がきちんと遂行されていないことを意味していた。
やれやれ、、、まさかこんな形で過去の宿題が回ってくるとは。
過去の記憶とひとつの約束
かすかな記憶が戻ってきた。ツチヤさんは、控えめで礼儀正しい女性だった。面談の最後、彼女は私にこう言った。「もし私に何かあったら、残った人たちのこと、お願いします」
その言葉は、日々の業務の中に埋もれて忘れられていた。でも、彼女は白紙の委任状という形で、再びその言葉を届けてきた。
いや、「届けさせた」という方が正確だろう。
忘れかけていた依頼人の名前
資料を見返すと、当時の案件の記録には彼女の直筆メモがファイルされていた。その中に、「弟にはまだ知らせないで」と走り書きされていた一文があった。
どうやら彼女は、相続の処理において意図的に家族に知らせず進めた部分があったようだ。
つまり、今回の白紙の委任状は、ある種の「告白」だったのかもしれない。
墓前に立つ老婦人の背中
翌日、私は彼女の旧住所を訪ねた。そこには彼女の母親が住んでいた。静かに語られたのは、娘が亡くなったこと、そして「司法書士さんにだけは渡してくれ」と託された封筒の話だった。
私は無言で頭を下げ、白紙の紙片に込められた彼女の想いを受け止めた。
その背中は、すべてを受け入れてきた人のそれだった。
サトウさんの冷静な推理
事務所に戻ると、すでに資料が整理されていた。サトウさんの手によるものだった。彼女は封筒の余白に残された指紋の向きを指差し、こう言った。
「これ、本人が封をしたものじゃないですね。開け閉めしてるうちについてます」
つまり、誰かが一度この委任状を読んでから封をしたのだ。それは誰なのか――。
白紙の意味を読み解く頭脳
サトウさんは言った。「依頼じゃなくて、これは“意思表示”ですよ。登記の続きをやれってことじゃなく、やらなくていいってこと」
確かに、白紙であることで伝えたいことがある。彼女は、未完了のまま残された仮登記を、あえてそのままにしておいてほしかったのかもしれない。
弟への配慮か、あるいは別の理由か。その判断は、我々に委ねられたのだ。
委任ではなく「遺志」だとしたら
委任状でありながら、委任内容がない。その矛盾にこそ、真のメッセージがある。
彼女は「やらないこと」を、司法書士に託したのだ。奇妙なようで、筋が通っている。
遺言ではできなかった願い。それを、委任状という形に託したのだと考えれば納得がいく。
かすれた筆跡が導く真実
署名部分を拡大すると、消えかけた筆跡の横に、ごく小さく「ありがとう」と書かれていた。
それは本人の筆跡ではなかった。弟、いや、その母親が記したものだろう。
この紙は、依頼状ではなく、手紙だったのだ。
裏書きされた名前と年月日
裏には、ひとつだけ日付があった。「令和五年三月十五日」
登記が未了となっていた仮登記の抹消期日と一致していた。
つまり、その日を最後に、全てを終わらせたかったのだろう。
白紙に込められた決意
人は言葉を使って伝える。しかし、言葉を使わないことでしか伝えられない想いもある。
白紙であること。それが、最大の表現だった。
私はその意味を受け止め、記録を封印することを決めた。
やれやれ、、、また妙なことに巻き込まれて
事件とは呼べない、小さな出来事。でもそれは確かに人の心に関わる、難解な問題だった。
法の枠を超える判断は、本来私の仕事ではない。だが今回は例外にした。
それが、彼女の「白紙」に対する答えだと思ったからだ。
法では割り切れないものの行方
事務所には再び静けさが戻っていた。白紙の委任状は、金庫の奥にしまわれた。
処理されなかった登記。そのままでいいと、私は決めた。
法の判断ではない。人の思いへの、私なりの応答だ。
届け先は過去か未来か
サトウさんは淡々と書類を整理していた。私が缶コーヒーを差し出すと、一瞥して無言で受け取った。
未来の依頼人がこの記録を見ることは、きっとない。それでも、ここに意味はある。
私は椅子にもたれかかり、ひとつ大きく息をついた。「やれやれ、、、だな」