契約書十三枚目の謎
午後一時の来訪者
八月の暑さに辟易していた午後一時、事務所の扉が勢いよく開いた。背広のボタンを外す暇もなく立ち上がったところに、スーツ姿の中年男が足早に入ってきた。「急ぎの相談がありまして」と息を弾ませるその顔には、何かに追われているような緊張が浮かんでいた。
「登記の依頼でしょうか」と声をかけると、男は首を横に振り「契約書の件です」と切り出した。その手には、分厚い封筒。紙の角が擦れており、何度も開閉された様子が見て取れた。
ノンブルの乱れた契約書
封筒から出てきたのは、取引先との業務委託契約書だった。パラパラと目を通すと、すぐに違和感があった。ページ番号、いわゆるノンブルが「1」「2」「3」…「12」…と続き、「14」で終わっている。あれ、「13」がない。
「この契約書、作成したのは向こう側なんです。昨日気づいたんですが…なんか気味が悪くて」男はそう言って、頭をかく。契約自体は成立しているが、肝心の十三枚目が存在しない。何かを隠しているのではないか、そんな疑念がよぎった。
一枚抜けた理由
コピーの際のミスかと思い、電子データの提出を求めたが、それも「十三枚目」が存在しない状態だった。「ないものはない」という姿勢に、僕の中の何かがチリチリと騒ぎ出す。まるで、名探偵コナンのあのテーマが頭の中で流れ始めたような感覚。
「これは、ただのミスじゃないですね」そう呟くと、サトウさんがスッと目を細めた。「気づいてしまいましたか」その声のトーンが、やけに落ち着いているのが逆に不気味だった。
登記申請と不一致の謎
この契約書を元に既に登記申請がされていたことを知り、僕は急いで法務局の記録と突き合わせることにした。すると、そこには記載されていないはずの「特別条項」が含まれているという不思議な記録が見つかった。
契約書に記載されていない内容が、登記に反映されている。つまり、「ないはずの十三枚目」が、法的には存在しているかのように扱われていたのだ。誰かが意図的に削除し、そのまま進めていたことになる。
うっかり者の名推理
一瞬、「うっかり自分が見落としたのでは」と不安になった。元野球部の僕は、こういう細かい作業に昔から向いていなかった。けれど、今回は違う。絶対に見落としていない。自分を信じろ、シンドウ。
「サトウさん、十三枚目が存在した形跡、調べられます?」そう言うと彼女は黙ってPCを叩き始めた。数分後、「ありました。PDFのバージョン履歴にだけ、幻の十三枚目が残っていました」と、あっさり言ってのけた。
サトウさんの冷静な分析
そこには「業務の一部を第三者に再委託できる」という条文が書かれていた。依頼者はその存在を知らされておらず、向こうの会社はそれを削除して、別の目的で第三者に再委託していたのだ。
「つまりこの会社、下請けを使っていることを隠したかったんですね」と僕が言うと、「ええ。再委託禁止って書いてある契約も別にあって、そっちに引っかかると面倒ですから」とサトウさん。冷静だが、声はいつもよりほんの少しだけ温かい気がした。
十三枚目の証拠
削除されたPDFの履歴と、登記簿の記録。これらを突き合わせれば、「意図的な契約書の改ざん」として証拠になりうる。「この件、裁判になったら向こうが不利ですね」と僕が言うと、依頼者は驚いたような顔で「本当に助かります」と頭を下げた。
「やれやれ、、、契約書ってのは、ページが揃ってるかどうかだけでも事件になるんだから、面倒な仕事だよ」そう漏らすと、サトウさんが「でも、それが先生の仕事ですから」と塩対応で締めくくった。
契約書が語る過去
後日、件の会社は他にも複数の契約で同様の手口を使っていたことが明るみに出た。契約書とは、紙の束ではなく、信頼の証であるべきだ。十三枚目はその象徴だったのかもしれない。
僕は黙ってその契約書の写しを閉じ、棚に戻した。まるで、読み終わったサザエさんの単行本を本棚に戻すような、静かな満足感とともに。
最後のページの告白
依頼者は後日、「あの条文があることを知らなかった自分が恥ずかしい」と語った。「契約って、読むだけじゃダメなんですね」と。そして「先生、また何かあったらお願いします」と丁寧に礼を述べて帰っていった。
僕はうなずくだけで答えた。契約書の中に、真実が隠れていることもある。けれど、それを暴くのはいつも人間の意志だ。十三枚目が教えてくれたのは、そういうことだった。
犯人の意外な動機
内部調査の結果、削除を指示したのはその企業の中間管理職だった。「経営陣に知られたくなかった」と告白したという。利益率を上げるために、バレない形で再委託を重ねていたのだ。
動機としてはありがちだが、その方法が稚拙だった。契約書を一枚削って済むほど、世の中は甘くない。特に、それを扱う司法書士の目から逃れるなど、夢のまた夢だった。
契約不履行の代償
結局、その会社は契約不履行を理由に多額の賠償金を支払うことになった。表には出ていないが、行政からの監査も入ったという噂だ。「一枚の紙」で、企業が傾く。紙一重とは、まさにこのことだった。
依頼者は新しいパートナーと契約を結び直し、今回は全ページを僕に見せながら一つずつ確認していた。その姿は、どこか安心しているようにも見えた。
書類の闇と司法書士の矜持
世の中には「形式を整えたら中身はどうでもいい」と思っている人が多すぎる。けれど、契約書とは命綱だ。それを守るために、僕たち司法書士がいるのだ。
「やれやれ、、、今日もまた、書類と格闘する一日が始まるか」僕は独りごちて、デスクの山積みのファイルを一つ手に取った。逃げられない戦場が、ここにはある。
元野球部の意地を見せる
「先生、印鑑証明の期限切れてますよ」とサトウさんに指摘され、「あっ」と言って走り出す。まるで、ノーアウト満塁でバッターボックスに立った時のような緊張感。だが、不思議と悪くない。
三振かホームランか、それは分からない。でも、バットは振らなきゃいけない。司法書士だって、勝負の世界なのだ。
一件落着とサトウさんのため息
午後五時、すべての報告書を終え、サトウさんがようやく椅子に沈み込む。「先生、今日は頑張りましたね」と珍しく労いの言葉。「おう、ありがと」と答えたら、「明日も書類の山ですけど」と笑顔なしの返し。
やれやれ、、、本当の難事件は、もしかしたらこの人かもしれないな。そんなことを思いながら、僕は静かに電気を消した。
誰にも読まれなかった一枚
棚の中にしまわれた「十三枚目」は、今もひっそりと封筒の中にある。誰にも読まれず、誰にも知られず、けれど確かにそこにある。
それはまるで、サザエさんの家の裏にある波平の書斎のような存在だ。目立たないが、なくてはならない。契約書とは、そういうものなのかもしれない。