証言できなかった接吻
夏の終わり、空気がまだ熱気を含んでいる朝だった。事務所の扉がぎいと重たく開く音に、僕は溜息交じりに顔を上げた。久しぶりの女性依頼人だったが、その表情には妙な緊張が走っていた。
彼女の口元には、落としきれなかった口紅の跡。そして僕に差し出した書類は、未登記の山荘に関するものだった。
朝の依頼者は口を閉ざしたまま
「登記名義の変更をお願いしたいんです」そう言う彼女の声は震えていた。しかし質問を重ねても、相手の名前や状況を明かそうとはしない。亡くなった恋人の遺志を継いで――というが、その遺言状すら見せようとしない。
まるで何かを隠しているようだった。僕の中の警鐘が鳴り始めていた。
無登記のままの別荘地
資料を読み解くうちに、この別荘地はどうやら数年前に譲渡されたまま、登記が放置されていたらしい。しかも所有者が最近亡くなったばかりだという。もしそうなら、相続人の確認が必要になる。
「このまま手続きすればいい」なんて簡単な話じゃない。裏に何かある。
唇に残った口紅と秘密
彼女が帰ったあと、机にうっすらと残された口紅の跡に気づいた。気取った依頼人にしては不用心すぎる。あの残り香のような感触は、事件の気配すら漂わせていた。
まるでルパン三世の不二子ちゃんが残していったメッセージのように。
サトウさんは違和感に気づいていた
「あの人、嘘をついてますね」
昼過ぎ、事務所に戻ったサトウさんがきっぱりと言い切った。彼女は僕が渡した書類を見て、表情を曇らせていた。「所有者、亡くなってないですよ。先週コンビニで見ました」
やっぱりな、と思いながらも、僕は頭を抱えた。
遺言と登記の食い違い
調べてみると、確かに死亡届もなければ火葬証明も存在しない。遺言の検認もなされていないのに、「死んだ恋人の遺志」などと言うのは奇妙だった。
登記簿の名義変更を急ぐ理由が、どうにも腑に落ちない。
被害者が語らなかった最後の言葉
翌日、実際の所有者とされる男性の行方が分からなくなっていることが報じられた。警察もすでに動いているらしい。僕の事務所にも、刑事がちらちらと顔を出し始めていた。
何かが起きている。だが、被害者はまだ生死さえ定かではなかった。
愛人契約と登記義務の狭間
調査を進めるうちに、依頼人が愛人としてその山荘に出入りしていたことが判明した。だがその立場では、当然名義変更の正当性は主張できない。
つまり彼女の狙いは、虚偽の死亡情報で登記名義を乗っ取ることだった。
うっかりミスが暴いた真相の糸口
「シンドウさん、これ見てください」
サトウさんが机に並べたのは、依頼人が持ち込んだ遺言状のコピーと、実際に役所から取り寄せた印鑑証明書の筆跡の違いだった。僕は思わず頭をかいた。
「やれやれ、、、やっぱり偽造か」
接吻の相手と嘘の証言
刑事の取り調べで、依頼人は「恋人と最後にキスをして別れた」と証言したが、防犯カメラの映像では彼女が単独で別荘から出てくる姿が映っていた。しかもその数分後、彼は別の女性と一緒に食事している様子も記録されていた。
つまり、接吻はなかった。語れなかったのではなく、存在しなかった。
名義人が語った真夜中の出来事
数日後、失踪していた名義人がひょっこりと姿を現した。「ちょっと揉めてね、家出してたんだ」と笑う男の顔に、うっすらと痣が残っていた。
彼は語った。「あいつ、勝手に名義を変えようとしてた。キス? そんなもん、するかよ」
サトウさんの推理はピンポイント
「シンドウさん、まさか本気で口紅の跡を手がかりにしたわけじゃないですよね?」
鋭く冷たい視線が突き刺さる。僕はごまかすように笑って、机を片付け始めた。
「いや、まあ……ちょっとルパン風の演出かと思ってさ」
本当の依頼人は誰だったのか
最終的に、依頼人の背後には小規模な不動産ブローカーがついていたことが判明した。あの女は単なる駒で、山荘の所有権を不正に取得しようとしていたらしい。
証言も、接吻も、すべては偽りの演出だった。
登記簿の空白が語る感情
山荘の登記簿は、いまだに白紙のままだ。だが、そこに何かしらの人間関係の傷跡が刻まれているように見えた。
「登記じゃ測れない感情もあるんですね」と僕が呟くと、サトウさんは冷たく言った。
「測れないからこそ、法は必要なんですよ」
検察が動かずシンドウが走る
結局、事件としての立件には至らなかった。被害届もなく、名義人本人が訴えない限り動かせない。僕はせっせと無効な遺言の報告書をまとめ、関係機関に通知を出す羽目になった。
「やれやれ、、、また報われない仕事だよ」
そして接吻は法廷には届かない
真実は明るみに出たが、誰も罪には問われなかった。あの口紅の跡も、彼女の涙も、法廷で語られることはなかった。
だが一つだけ確かなのは、僕ら司法書士が記録しなければ消えてしまう事実があるということ。誰かのキスのように、そっと、ひっそりと。