事務所に舞い込んだ古びた封筒
朝の事務所に、ひとつの古びた封筒が届いた。差出人不明、宛先も手書きで滲んでおり、なにか湿ったような手触りだった。ぼくはいつものようにコーヒーをこぼしながら封を開けると、中には一通の委任状と、簡素な相続登記の依頼書が入っていた。
「またか……」と呟きながら内容を確認すると、依頼人の名前に見覚えがあった。いや、見覚えというより——既に故人のはずの人物だった。封筒の端には、涙でにじんだような痕跡が残っていた。
差出人は死んだはずの依頼人
委任状には、その故人の筆跡らしきサインが確かに記されていた。しかし、その死亡日は1年前。もし生きているなら大騒ぎだ。おまけに登記の委任状の日付は、死亡後のものになっている。
「これは、、、どう見てもおかしいですね」とサトウさんが、眉ひとつ動かさずに言う。その視線が冷たくも正確で、逆に安心する。
サトウさんの一言が導いた違和感
「インクの滲み方、最近ですよ。これ、昨日とかそのくらいじゃないですか?」
「は?」と思わず声が出た。まさか、死者が復活してサインを? サザエさんの波平が突然ルパン三世の変装術を披露したような、現実離れした奇妙な展開に背筋が冷える。
委任状に滲んだ涙の跡
封筒の裏面には、まるで濡れた手で触れたような跡があった。インクのにじみが、それを示しているようにも見えた。誰かが泣きながら、この書類を封入したのかもしれない。
「この“滲み”、サインの前に出来たものですよ」とサトウさん。つまり、誰かが泣いて、それから偽の署名をしたというわけだ。やれやれ、、、まるで少女漫画のような展開じゃないか。
インクのにじみと筆跡の矛盾
本物の筆跡と照合してみると、明らかに違う。とくに“山”の書き方に個性がない。筆跡鑑定ソフトでも“疑義あり”の判定。つまり、偽造だ。
だが、それはなぜか雑に見える偽造だった。本気で隠すならもっと丁寧にやるはずだ。どこか、偽造を「見破らせたい」意図が透けて見える。
やれやれ、、、ここからか
書類をもう一度丁寧に確認しながら、深くため息をついた。こうなるとただの書類仕事じゃない。司法書士といえども、探偵ごっこのはじまりだ。
「やれやれ、、、また一歩、職域を超えちまったな」そんな独り言に、サトウさんは「最初から超えてます」と切り返してくる。まったく、うちの事務所は何屋なんだろうか。
相続登記の依頼に潜む影
調査を進めると、依頼人の兄がこの物件の共有者であることが判明した。兄はすでに住まいを売却して別の町に引っ越しているが、どうやらこの相続登記を早く済ませたがっていたらしい。
そして何より、兄は生前の弟とほとんど交流がなかったという。それでも兄の名前で登記依頼が出されていた——弟の死後に。
兄弟の確執と改ざんされた日付
戸籍と照合すると、弟の死亡日は確かに1年前。しかし、委任状の日付は3ヶ月前。完全にアウトだ。それなのに書類は堂々と整っている。どこかの司法書士が関与していたのだろうか?
「いや、この字、ちょっとクセがあるけど、誰かに似てませんか?」とサトウさんが言った。彼女の記憶力には毎度驚かされる。
戸籍の端にあった違和感
戸籍の備考欄に、名前の訂正記録があった。それがきっかけで、過去に一度だけこの兄が登記をやり直していたことが判明する。つまり、書類作成に慣れているというわけだ。
兄の筆跡と、今回の委任状がほぼ一致していた。これで確定だ。偽造の犯人は、依頼人の兄。そして、その目的は——物件の独占だ。
動かぬ証拠は紙の中に
裁判所に提出するには、もうひと押しの証拠が必要だった。そこで、提出された委任状のコピーと、法務局に保管されていた過去の書類を比較した。
結果、使用された印鑑が過去と異なっていた。つまり、委任状だけでなく印鑑まで偽造された可能性がある。これは明確な犯罪の匂いがする。
委任状のコピーが語る二重性
コピーには、原本にはない“訂正印”の跡があった。偽造の過程で誤字を直したのだろうが、それが逆に証拠となる。証拠を残したまま提出するとは、急ぎすぎた証だ。
こうして「なぜ今、相続登記か」の謎が解けた。兄が売却に焦っていた理由が、ようやく見えてきた。
司法書士だからこそ見抜けた偽造の手口
今回のような細かい偽造は、経験がないと見逃す。だが、登記実務を熟知しているぼくらだからこそ、インクの色調や筆圧まで読み取ることができた。
「探偵じゃなくて司法書士が暴くって、ちょっとカッコいいですね」サトウさんが珍しく笑った。……いや、微笑んだ、くらいか。
真犯人は涙を隠していた
警察と連携し、兄は任意同行されることになった。だが彼は「悪気はなかった」と繰り返した。相続がこじれていたのは確かだが、それでも——弟を思う涙は、本物だったかもしれない。
滲んだ委任状。それは、贋作でありながら、兄弟の複雑な感情が交差した“証”でもあった。
法務局の登録簿に現れた新事実
念のため閲覧した過去の登録簿に、一度だけ弟の自筆で修正願が提出されていた記録があった。それは兄に財産を「預ける」と書かれていた。けれど、それが法的効力を持つことはなかった。
弟は兄を憎んでいたのではなく、むしろ頼りにしていたのかもしれない。だが、方法を誤れば、すべてが裏目に出る。
最後の署名に込められた願い
偽造とはいえ、兄が書いた最後の署名には——何かを託すような、切ない形跡が残っていた。彼が泣いていたのは、罪悪感からだけではないだろう。
登記は失敗した。でも、兄弟の物語は、ぼくの中で静かに完結していた。
終わらない登記と、始まる告白
事務所に戻ると、いつも通りサトウさんが冷めた紅茶をすすっていた。ぼくが椅子に座ると、彼女は珍しく先に口を開いた。
「あなたの、司法書士としての“目”は、本物ですね」
サトウさんの塩対応に隠れた優しさ
「へ?今なんか褒めました?」と聞くと、「褒めてません」と即答。やっぱりいつものサトウさんだ。だがその顔には、ほんの少し、夕焼けが映っていた。
やれやれ、、、次はどんな依頼が転がり込んでくることやら。
シンドウの背中に差す夕日
今日も登記は終わらなかったが、何かは確かに“整理”された。背中越しに感じる夕日は、妙にあたたかい。ぼくはまた明日、誰かの真実と向き合うのだろう。
元野球部のぼくにできるのは、泥だらけでもボールを最後まで追いかけること——それだけだ。