午前九時の訪問者
約束のない来客
事務所のドアが開いたとき、時計はまだ午前九時を少し回ったばかりだった。来客予定はない。いや、正確には「忘れてる可能性もある」と自分に言い訳しながら、俺は椅子からゆっくりと腰を上げた。
ドアの向こうに立っていたのは、見るからに緊張した様子の若い女性だった。手には分厚い封筒。目が泳いでいた。
「相談がありまして…」と、か細い声で言ったその瞬間、空気が変わった気がした。何か、ただの登記の話ではない——そう、俺の第六感が囁いていた。
少し変わった依頼内容
女性の話によれば、亡くなった祖母の遺言書に不審な点があるという。封筒から出てきたのは、数年前に書かれた公正証書遺言と、手書きで「本当はこちら」と書かれた紙片。
「どちらが本物かわからないんです」と彼女は言うが、どちらも本物に見える。いや、どちらも偽物かもしれない。俺は一度目を閉じ、息を整えた。
「なるほど、やっかいだな」とつぶやいたとき、サトウさんがコーヒーを机に置いた。無言。いつもの塩対応だ。
サトウさんの違和感
書類よりも表情を読む女
書類を斜めに見るサトウさんのまなざしは、明らかに何かを探っていた。俺が法的な整合性を考えている間、彼女は依頼人の手元や仕草を細かく観察していた。
「この人、どこかで見たことある気がする」とポツリとつぶやいたその声は、妙に確信を帯びていた。
「もしかしてテレビとか?」と冗談めかして聞いてみたが、彼女は「サザエさんでいうと、マスオさんが浮気してるぐらいの違和感」と言い放った。意味はよくわからなかったが、とにかくおかしいらしい。
その場で交わされた言葉
俺たちが黙り込んでいると、依頼人の女性が焦ったように口を開いた。「本当に祖母は、私にすべてを遺すと言っていたんです」——その語気の強さに、かえって俺の疑念は深まった。
「言っていた」と「書いていた」は、まったく別の話だ。法律は、気持ちじゃなくて証拠を扱う。でも、人間の本音は気持ちの中にある。
「やれやれ、、、また面倒なやつだ」と心の中でつぶやきながら、俺は目の前の書類に目を戻した。
記憶に引っかかる名前
どこかで聞いたような苗字
遺言書に書かれた「後見人」の欄に、ふと目が止まった。そこに書かれた名前を見て、背筋に冷たいものが走った。見覚えのある苗字だった。
「この人、確か…」と独り言のように漏らすと、サトウさんがすかさず「元市議ですよ。数年前に横領で名前出てました」と返してきた。
記憶の中の新聞記事が脳裏によみがえる。市民の信頼を裏切った男が、なぜここに出てくるのか。
旧姓が開いた謎の扉
依頼人の女性がぽつりと、「私、旧姓は別なんですけど…」と話し始めたとき、全てが繋がった気がした。彼女の旧姓と、元市議の苗字が一致した。
つまり彼女は——あの男の娘。そして祖母の遺産に手を伸ばしている理由が、ようやく明らかになってきた。
「これは、手続きだけの話じゃないな」と俺はつぶやいた。
元恋人からの警告
過去と現在が交錯する
その日の午後、さらに驚くことが起きた。昔の知り合い、というか、まあ正直に言えば元カノから電話がかかってきたのだ。突然すぎて、電話を取り落としそうになった。
彼女は小声で言った。「気をつけて。その依頼人、思ってるよりずっと…危ないよ」と。
それだけ言うと、電話は切れた。まるで探偵漫画のワンシーン。いや、俺は別にコナンくんじゃない。小五郎ポジションだ。
職務倫理の壁
俺は悩んだ。彼女が本当に危ない人物なら、依頼を断るべきか。でも、職務上の守秘義務がある。事実無根の可能性もある。
けれど、俺の勘が「進め」と言っていた。それに、何よりサトウさんが「このまま終わったら気持ち悪いです」と珍しく感情を出した。珍しいことだ。
それならもう、やるしかないだろう。俺の仕事は、登記だけじゃない。
封印された遺言書
手続きミスか意図的な改ざんか
書類を精査すると、わずかに筆跡の違いが見つかった。どうやら「本当はこちら」と書かれた遺言書は、誰かが祖母の真意をねじまげて作成した可能性が高い。
そしてそれを証明できる証拠も、見つけた。過去の公正証書と記載内容が矛盾していたのだ。つまり、偽造の可能性が高い。
「ここまできたら、証拠を揃えて提出するしかないな」と俺は言った。
司法書士が見抜く違和感
サトウさんが、封筒の隅に小さなインクのにじみを見つけた。「これ、修正液で消して上から書いてます」と冷静に指摘。
やっぱりすげえな、サトウさん。気づかないふりをしていた俺が恥ずかしい。やれやれ、、、また助けられてしまった。
そして俺たちは、その証拠をもって遺族会議の場へと向かった。
やれやれとつぶやく午後
感情を押し殺した対応
会議の席で、俺は冷静に状況を説明した。感情を交えず、ただ事実だけを語った。偽造の可能性、法的な無効性、それに伴うリスク。
依頼人は無言だった。すべてを悟ったかのように、顔から血の気が引いていた。
だが俺は、憐れみも怒りも見せなかった。ただの職務。それだけのことだ。
サトウさんの塩対応にも拍車がかかる
事務所に戻ると、サトウさんは「勝手に感情移入しないでくださいね」と釘を刺してきた。まったく、救いのない塩対応だ。
「でも…あの人、本当は祖母に認めてほしかっただけなんじゃないですかね」と、少しだけ表情を和らげてつぶやいた。
その瞬間、彼女の心にもわずかな感情の波があったのかもしれないと思った。
解かれた嘘の構造
遺産よりも重たい動機
結局、依頼人は訴訟を起こすことなく、遺言書の無効を認めた。理由は「それが祖母の望みだった気がするから」だった。
遺産を奪うための嘘ではなかった。ただ、愛されたかっただけ。その動機が、何よりも切なく俺の胸を打った。
感情と義務。その境界線は、いつも曖昧だ。
事件が終わったあとに
無言で差し出されたコーヒー
その日の終業間際、サトウさんが珍しくコーヒーを二つ入れてきた。俺の机に、そっと一つ置くと、また何も言わずに席に戻った。
俺はその湯気の立つカップを見つめながら、「やれやれ、、、」とつぶやいた。事件は終わったが、気持ちはまだ整理がつかない。
けれど、それでも前に進まなきゃいけない。俺の仕事は、まだ山ほどあるのだから。