午前九時の依頼人
蒸し暑い梅雨の朝。事務所のドアがきしむ音とともに、ひとりの女が現れた。大ぶりのサングラスに濡れた髪、無言でカウンター越しに封筒を差し出してきた。
「戸籍を調べてほしいんです」そう一言だけ残し、彼女は椅子に腰を下ろした。封筒には委任状が入っていたが、そこには驚くべきことに、何も記載されていなかった。
名前と戸籍が一致しない女
依頼人の名前は「森田絵里」。だが、彼女の提示した免許証と戸籍謄本の情報が微妙に一致していなかった。生年月日は合っているのに、本籍地が異なる。写真も本人のようだが、何かが噛み合わない。
こういうときはたいてい、相続や婚姻絡みの話だ。だが彼女の表情は、それよりもっと深いものを抱えているようだった。
何もかもが空欄だった委任状
委任者欄も受任者欄も空白のまま提出された委任状。しかも押印なし。司法書士を馬鹿にしているのか、それとも何かを隠しているのか。
「あの、、、こちら、無効になりますよ」そう声をかけると、彼女はぽつりと、「無効でも、私の名前が本当か知りたいんです」と言った。
サトウさんの冷静な一言
このとき隣でパソコンを叩いていたサトウさんが、チラリとこちらを見て言った。「戸籍だけじゃなくて、本人確認書類も怪しいですね」
冷たく聞こえるその声に、妙な安心感がある。まるで家に帰ったらカツオがまたテストを隠していたような、そんな既視感。
戸籍謄本に潜む違和感
戸籍謄本には森田絵里という名前が確かにある。しかし、その家族構成が妙だった。彼女は「一人っ子」と言っていたのに、謄本には姉がいることになっていた。
しかもその姉の出生地は、絵里さんの生まれたはずの場所と一致している。
除籍と転籍の罠
別の役所で調べた旧戸籍を見て、疑念は確信に変わった。姉はすでに死亡しており、戸籍から除かれている。そしてその直後に、絵里さんがその姉の本籍地に転籍していた。
つまり、彼女は死んだ姉の名前で生きている可能性があった。
私は司法書士であって探偵ではない
戸籍謄本の束とにらめっこしながら、私は自分の肩を揉んだ。「やれやれ、、、この暑さで思考が煮詰まってきたぞ」
だが一つずつ手続きの痕跡を辿れば、必ず真実にたどり着けるのが戸籍というものだ。
一枚の謄本から始まる過去の旅
彼女の「戸籍の始まり」を探すため、除籍簿を追う。婚姻、離婚、死亡、転籍、復氏。どれかが道をつないでいる。探偵気取りでないとやってられない作業だ。
だがこうして追っていくと、まるで怪盗キッドが次のターゲットに残したメッセージのように、意味深な痕跡がぽろぽろと出てくる。
消えた本籍地
やっと辿り着いた最初の本籍地は、今は町ごとなくなっていた。合併で役所が統合され、資料は別庁舎に保存されているという。
こういうときの移動費や待ち時間は、まったく誰も払ってくれない。愚痴の一つでもこぼしたくなる。
転籍届と不自然な日付
転籍の記録を見て驚いた。亡くなった姉の死亡届けが出された“次の日”に、絵里さんが転籍していたのだ。偶然では片づけられない。
もしかして、彼女は意図的にその名前と戸籍を“継いだ”のか。
本籍地が示す女の足跡
「姉のふりをしたのか、それとも姉が名を残して消えたのか」自問しながら、私は目の前の謄本を机に広げた。
サトウさんが小声で、「それ、本人の筆跡じゃないかもですね」とつぶやいた。
役所の奥に眠る名前
数日前に取り寄せた古い除籍謄本。その筆跡は、依頼人のサインと微妙に違っていた。しかも、申請者欄の住所も空欄だった。
不正な取得だった可能性がある。だが、その戸籍に記載された死亡した姉こそ、本当の依頼人ではないかという気もしてきた。
過去の戸籍から浮かび上がるもう一人の女
さらに読み解くと、死亡したはずの姉の婚姻届が存在していた。しかも、依頼人の名前と一致する姓を持つ相手と。
「これ、、、逆なんじゃないですか?」サトウさんが言う。「依頼人は姉じゃなくて、妹を名乗ってるだけかと」
戸籍筆頭者の意外な正体
筆頭者として登録されていたのは、依頼人本人とされる人物。つまり、彼女は“戸籍上”では姉でありながら、妹として人生を歩いていた。
何のために?誰のために?
女が追っていたのは自分自身だった
彼女が知りたかったのは、自分が誰か、ではなかった。自分が「誰であったことにされたのか」だったのだ。
記憶はあっても、戸籍がそれを否定する。法と記録が示すのは、別人として生きるという事実。
名前を奪われた人生
幼いころに家族間で起こった養子縁組と転籍。姉が妹を“養子”にしたことで、妹の名前は姉のものになった。親の意図だったのか、それとも、、、
「名前を変えただけで人生が変わるなんて」彼女のつぶやきが、妙に重たかった。
なりすましと遺産相続のからくり
全てのからくりは、十年前に亡くなった両親の遺産だった。誰の名前で相続を受けるか、それが当時の転籍操作の動機だった。
結果的に、彼女は姉になり、姉は戸籍の中で死んだ。
サトウさんの推理がすべてを繋げる
「結局、彼女が誰かを問うのは無意味ですね」サトウさんはきっぱり言った。「戸籍上の名前なんて、使うためのツールにすぎませんから」
私よりも司法書士向きかもしれないなと、少し思ってしまった。
「ここの続柄、見ました?」
サトウさんが指さしたのは、続柄欄の「養女」という記載。これが全ての始まりだった。
小さな欄に詰まった人生の歪み。戸籍という帳簿に、人間の真実を収めるのは、やはり無理がある。
戸籍と記憶の交差点
彼女はそっと立ち上がり、「ありがとうございました」とだけ言って去っていった。
その背中は、まるで過去と和解しにいくようだった。もう名前に振り回されることはないのかもしれない。
法の外で編まれた家族
血縁でも、書類でもない「家族」があるとすれば、それは彼女のような人が見せてくれるのだろう。
法を扱う者として、時々その無力さに気づく瞬間がある。
静かに閉じた事件の幕
この件に報酬はなかったが、不思議と嫌な気分ではなかった。人の戸籍を追いかけて、逆に自分を見つめ直した気がする。
まあ、こんなこと言ってるようじゃ、こっちはまだまだ独身まっしぐらだ。
再び現れた彼女の名は
数週間後、再び届いた封筒には、新しい名で書かれた転籍届の写しが同封されていた。
彼女は今度こそ、自分の名前で生きていく覚悟を決めたのだろう。
やれやれ、、、今日も書類は山積みだ
デスクに戻ると、登記の依頼が山ほど溜まっていた。現実はいつも、私のセンチメンタルな気分など意にも介さない。
「シンドウ先生、早く処理してくださいよ」塩対応のサトウさんの声に、今日も私は肩をすくめる。