新人時代に戻りたくなる午後の静けさ

新人時代に戻りたくなる午後の静けさ

ふとした瞬間に思い出すあの頃の自分

午後の事務所に一人残って書類を黙々と見ていると、ふとあの新人時代の自分が思い出されることがあります。何もわからず、ただ必死に周囲の顔色をうかがいながらメモを取り、書類の扱いに四苦八苦していた日々。あの頃は、目の前の仕事をこなすことに精一杯で、未来のことなんて考える余裕もなかったけれど、それがかえって楽だったのかもしれません。今のように“選ぶ立場”ではなかった分、かえって心が軽かったのだと気づくことがあります。

一番下っ端だった頃の安心感

「わからないことがあって当たり前」と思われていた頃は、肩の力を抜いて仕事に臨むことができました。ミスをすれば怒られましたが、それでも「新人だから仕方ない」という免罪符があった。今思えば、その“下っ端特権”のようなものが、精神的な安全基地になっていたのかもしれません。ミスが許されるというのは、仕事に慣れる上でとてもありがたい環境でした。

責任が軽いという自由

責任を持たなくていい、という状況は今では考えられないほど贅沢です。あの頃は、戸籍の取得ミスをしても「やり直せばいいさ」と先輩がフォローしてくれました。今なら、ミス一つで信頼を失いかねない立場です。責任がないというのは、失敗を恐れずに動ける自由だったのだと、今になってようやく気づきました。当時はその価値にまったく気づいていなかったのが、なんとも皮肉です。

上司の影に隠れていられた日々

上司の判断に従い、上司の名前で書類を提出し、上司が怒られるのを横目に反省していたあの頃。今では、自分がその“上司”の立場になってしまいました。叱られるのも、自分の判断で人を動かすのも全部自分。誰の影にも隠れられない日々に、息苦しさを感じる瞬間があります。信頼を得られるのはやりがいでもありますが、その重みがのしかかる午後には、ただただあの頃の気楽さが恋しくなるのです。

怒られることさえ「成長」と感じられたあの頃

怒られることが当たり前だった新人時代。ミスをすれば叱られ、できたことを褒められることはほとんどない。それでも、怒られるたびに「覚えなきゃ」と前向きに受け止めていたように思います。あれは、“自分にはまだ伸びしろがある”という安心感があったからかもしれません。今は、誰にも怒られない代わりに、誰もフォローしてくれない。あの「怒られる安心感」が、案外恋しいのです。

今では怒られることすらない孤独

今の立場になると、何をどう判断しようが基本的に誰からも指摘は入りません。判断ミスがあっても、「まあ、先生がそう言うなら」と周囲が引くことさえある。それが一番怖いのです。間違いを正してくれる人がいないというのは、想像以上に孤独で不安なことです。新人時代、先輩にどやされていたあの感覚は、実はとてもありがたい指針だったのだと、今だからこそ感じます。

間違いに気づかれていないだけの恐怖

書類を提出した後、何か見落としていたのではないかと不安になることがあります。けれども誰にも指摘されない。数ヶ月後、ふとしたときに「あの処理、あれでよかったのか?」と気づいても、もうどうしようもないことが多い。誰にも気づかれていないだけ、というのが一番怖い。新人の頃のように、逐一チェックされるほうが、よほど健全だったのではないかと思うことすらあります。

今の自分にのしかかる重さ

新人の頃と比べて、自分の立場も責任も大きく変わりました。書類ひとつ、言葉ひとつで依頼人の人生を左右することもあります。軽く引き受けたつもりの案件が、何ヶ月も尾を引いてくることもある。あの頃の自分に「この仕事、そんなに甘くないぞ」と言いたくなると同時に、今の自分にも「昔の自分を忘れるな」と言いたくなる瞬間があります。

判断する立場の怖さと疲れ

誰かの後ろに隠れているうちは楽でした。今は、誰かが困っていると「どうしましょうか」と言われるのは常に自分です。何かを判断しなければならないという立場は、実は非常に体力と精神力を消耗します。しかもその判断が正しかったかどうかは、あとにならないとわからない。自信を持つにも根拠が要るし、間違っていたら謝る覚悟も常に持っていなければいけないのです。

誰にも相談できない決断の重み

依頼人には当然聞けませんし、事務員さんには判断を委ねられない。結局、最後は自分で決めるしかない。決断には孤独がつきものですが、それが積み重なると、ふと「誰かに決めてほしい」と思ってしまう瞬間があります。かつては先輩にすぐ聞けたのに、今は聞く相手すらいない。その孤独に気づいた瞬間が、一番しんどいのかもしれません。

「先生」という肩書きが時に足かせになる

「先生だから当然わかるでしょ」という空気に、日々追い詰められることがあります。知らないことを「知らない」と言えば失望されるような気がして、曖昧なまま言葉を濁すこともあります。でも、本当は「わからない」と言えるほうが強いはずなのに、それができないのは、「先生」という言葉の重さに自分が負けている証拠。名刺に書かれたその肩書きが、時に自分を苦しめるのです。

事務所の舵取りという孤独な役目

事務所の家賃、報酬、経費、そして事務員さんの生活。すべてを考慮して事務所を回していくというプレッシャーは、想像以上に重たいです。仕事の依頼が少ない月は、自分の生活よりも先に「スタッフにちゃんと給料を払えるか」が頭をよぎります。自分ひとりでやっていた頃のほうが、気楽だったなと思うことすらあります。人を雇うというのは、それだけで責任の塊なのです。

経営者としてのプレッシャー

司法書士でありながら、経営者でもあるという立場。これは資格試験では教えてくれなかった現実です。経営とは、案件をこなすだけでは成り立ちません。集客、請求、支払い、トラブル処理。ひとつひとつが専門外だけれど、やらなければ誰もやってくれない。そんな現実に直面するたびに、「事務所って大変だな」と独り言が漏れてしまいます。

家族でも社員でもない一人の責任

事務員さんはとてもよくやってくれている。でも、やはり“家族”でも“社員”でもない。何かあったとき、自分ひとりが矢面に立つしかないという現実があります。事務所で起きたミスもトラブルも、最終的には全部自分の責任。それは当然だとしても、誰かと分かち合える感覚がないというのは、想像以上に心にこたえるのです。

それでも進んでいくしかない理由

過去に戻りたいと思うことはあるけれど、現実には戻れません。でも、新人だった頃の自分が、今の自分を見てどう思うかと考えると、少しだけ背筋が伸びる気がします。あの頃の必死さを思い出しながら、今日もまた、書類と向き合う。しんどいけど、それが今の自分の役目なんだと、静かな午後にかみしめることがあります。

あの頃の自分が今の自分を見たら

もし新人時代の自分が今の自分を見たら、果たしてどう思うのだろう。がっかりされるかもしれない。でも、少なくとも自分なりに真面目にやってきたとは言える気がします。「先生になったんだ」と、少しは誇らしく思ってもらえると信じて。あの頃の自分と対話するようにして、今日もまた、目の前の仕事を進めています。

後輩がいないなら、昔の自分が後輩だ

独立してから、後輩という存在がいません。でも、それなら昔の自分が「後輩」だと思えばいい。今の自分が、その「後輩」に何を教えてあげられるのか。そう考えると、少しだけ気持ちが整います。誰かのためではなく、自分自身の歩みのために仕事をしているんだと、忘れずにいたいものです。

戻れないけれど繋がっている記憶

新人時代に戻ることはできません。でも、その記憶は今の自分と確かにつながっています。何もわからなかった頃の自分がいたからこそ、今がある。そう思うと、今日の苦しさも少しだけ意味があるように思えるのです。あの頃の自分と会話しながら、今日もまた机に向かっています。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。