誰も言うことを聞かない日常の中で
地方で司法書士をやっていると、周囲との関係が極端に密かと思えば、逆にびっくりするくらい冷たく感じる瞬間もある。朝から晩まで人と接しているようで、実際はほとんど誰とも本音で話していない。事務所に戻って一人になったとき、ふとした沈黙に「あれ、今日自分は誰かに話をちゃんと聞いてもらえたか?」と虚しくなる。依頼人は、自分の主張ばかりでこちらの説明なんてほとんど耳に入っていない。それでも笑顔で対応するけれど、心の奥では「誰か、俺の言葉にちゃんと耳を傾けてくれ」と叫んでいた。
事務所に響くのは自分の声だけ
電話のコール音、書類をめくる音、キーボードを叩く音。全部自分の音だ。事務員の彼女ももちろん一緒に働いてはいるけど、こっちが愚痴をこぼそうものなら「そういうのは家で言ってください」と一蹴される。正論すぎて言い返せない。気づけば、俺の声だけが空中で虚しくこだましている時間が増えた。昔は野球部で「声出せ!」と怒鳴られていたけど、今のこの空間で声を出しても、返ってくるのは無音。自分の存在を確認するための独り言すら、いつの間にかやめてしまった。
事務員は優秀だけど俺の話は流す
本当にありがたいことに、うちの事務員は仕事が早くて正確だ。おかげで業務の8割は滞りなく回る。ただ、話を聞いてもらえるかというと、それはまた別の話。俺が「最近、肩が痛くてさ」と話し始めても、彼女は「そうですか」と事務的に返すだけ。いや、そりゃそうだ。雇い主とはいえ、おっさんの雑談なんて面倒でしかないだろう。それでも、もう少しだけ興味を持ってくれてもいいんじゃないかと思うこともある。でも言わない。言えない。小さな不満は、どんどん蓄積されていく。
「はい」と言ってくれるのは紙だけだった
そんな中、唯一反発せず、文句も言わず、こちらの意図を100%汲んでくれる存在が契約書だった。こちらが用意した文面を、印刷し、署名欄を整え、完璧に仕上げる。相手の返事も「はい」じゃないけれど、「署名捺印」という無言の肯定である。誰にも聞いてもらえない毎日の中で、契約書だけが俺の言葉にきっちりとうなずいてくれる。そんなの、少しおかしいって分かってる。でも、それが今の俺の支えだった。
契約書という完璧な従者
契約書は人間のように感情を持たない。だからこそ裏切らない。言ったことはその通りに残り、修正も簡単。思い通りに整うフォーマットに、妙な安心感を覚えるようになった。相手がどんなに感情的でも、契約書さえあれば話が整理され、結果が出る。そんな完璧なツールが、唯一自分の言葉を形にしてくれる存在になっていった。
思い通りに動く安心感
人間関係では何をどう伝えても伝わらないことがある。言い方を間違えれば怒られるし、沈黙すれば不満を持たれる。ところが契約書にはそんな心配がない。内容を整え、条文を記せば、誰にも感情の押し引きをされず、ただ「書いた通り」に動く。依頼人の態度に傷ついた日でも、契約書が完成した瞬間だけは「これでよし」と自分を認められた気になる。人よりも紙に安心してしまう。これが職業病なのか、それとも心の逃避か。
人間関係がうまくいかないときの逃げ場所
本来、契約書は人と人とをつなぐもの。でも、俺にとっては人と人との間に壁をつくる道具にもなっていた。「この通りにお願いします」と契約書を示すことで、余計な会話を減らせる。気持ちを汲む必要もない。すべて書面で決めてしまえば、人との接触を最小限にできる。孤独だけど、その孤独に慣れ過ぎてしまった。逃げている自覚もある。でも逃げずにいたら、自分が壊れるような気がする。
訂正印さえ押せば世界は整うという幻想
たとえミスをしても、訂正印ひとつで帳尻を合わせられる。それが契約書の世界だ。現実の人間関係でも「すみません、押し間違えました」で済めばどれだけ楽か。でもそうはいかない。だからこそ、訂正印で全てが整う契約書の世界にどんどん安心を感じるようになった。どんなに乱れた感情や対話も、紙の上では整然と整理されていく。その「整い」が、俺にとっては現実逃避ではなく、一種の救いだった。
元野球部の上下関係が通じない現実
若いころは野球部で、「上下関係」「礼儀」「気合い」がすべてだった。先輩には絶対服従、後輩には厳しくも面倒を見る。それが正しいと思っていた。けれど今、そんな価値観は通じない。依頼人は年下でも平気で横柄な態度をとるし、事務員にも「上下関係って何?」みたいな空気がある。俺の中の正しさが、社会では通じない。そう気づいたとき、自分の根っこが揺らぐような感覚に襲われた。
礼儀や気遣いが意味をなさない場面
丁寧に接しても、無視されることがある。逆にズケズケ物を言う人ほど「仕事ができる」と評価されたりもする。自分が大事にしてきた「礼儀」や「気遣い」が、今の世の中ではむしろ遠回りだとすら感じることがある。そんな世界でどう振る舞えばいいのか分からない。契約書は、その辺を気にしない。無礼でも丁寧でも、条文に沿って動く。それが今の俺にとって、唯一ブレない存在なのだ。
後輩気質が足を引っ張る瞬間
自分より年上の依頼人が来ると、つい「へりくだりすぎる」癖が出てしまう。元野球部の名残なのか、自分を前に出せない。結果、言いたいことも伝えきれず、モヤモヤだけが残ることも多い。その点、契約書は違う。主語も動詞もすべてこちらがコントロールできる。思いをそのまま伝えられる。だからこそ、契約書にばかり頼ってしまう。人よりも、文章でのやりとりの方が気が楽になってしまった。
誰かと本音で向き合いたいのに
「ちゃんと話したい」――この思いは、常に心の奥にある。だけど、話せばズレが生まれ、沈黙が気まずくなるのが怖い。人と向き合うって、こんなにも難しかったか?と自問する。優しさがあると言われることもあるけど、それは単に「波風立てたくない」だけ。気づけば、誰にも本音をさらせず、契約書の文章だけが本心を反映する場になっていた。
優しさが裏目に出るという苦しさ
人を傷つけたくないという気持ちが強いあまり、自分の意見を言えなくなることがある。言ったあとで「余計なことだったか」と何度も反省し、そのうち何も言わなくなる。結果、周囲にとって都合のいい存在になっていく。そうして溜まった感情は、契約書の文面ににじみ出る。「この一文が、せめて自分の気持ちの代弁になれば」と思いながら、一字一句を練り上げる。紙だけが、俺の優しさを誤解しない。
なぜかモテない自分の言葉の重さ
婚活アプリも合コンも、何度かチャレンジはした。だけど、うまくいかない。真面目に答えるほど「面白くない」と言われる。軽口を叩けば「軽薄」と返される。結局、何を言っても評価されない。自分の言葉は、そんなに人に届かないのか?と落ち込むこともある。でも契約書は違う。正しく書けば、きちんと伝わる。感情抜きの世界に癒されている自分が、なんとも寂しい。
紙に書かれた言葉だけが真実に思える瞬間
人と話すたびに、誤解や勘違いが生まれる。だけど紙に書かれた言葉は、誰が読んでも同じ意味になるように工夫できる。そこに「真実」があるような気がしてしまう。俺にとっては、契約書こそが「信じられる言葉」だった。どれだけ孤独でも、紙の上では自分の言葉がきちんと残る。その一点だけが、司法書士としての自分を支えている。
司法書士という孤独な職業の中で
この仕事は、人の人生に関わる責任ある仕事だ。なのに、自分の人生はどこか空洞だと感じる日がある。契約書を作って感謝されても、心は埋まらない。寂しさと向き合いながら、それでも契約書を見つめている。「お前だけは、俺の言うことをちゃんと聞いてくれるよな」――今日もそんな気持ちで、一枚の紙を前にしている。
信頼されても、心までは届かない
「助かりました」「ありがとうございます」そんな言葉をたくさんもらう。でも、それはあくまでサービスに対する感謝であって、人としてのつながりではない。仕事がうまくいけばいくほど、逆に心の距離を感じる。孤独が深まる。でも、そこに気づいてしまったら、もう前に進めない。だから契約書に向かう。そこだけは裏切らない世界だから。
だから契約書とだけは真正面から向き合う
人と向き合うのが苦手になってしまった今、せめて契約書とは正面から向き合おうと思う。言葉を大事にし、相手の意図をくみ取り、誤解が生まれないように一文一文を確認する。その作業だけは、自分にできる「誠実な仕事」だと信じたい。契約書にうなずいてもらえる限り、俺はなんとかこの世界で踏ん張れる気がする。