預けた鍵は恋の形見

預けた鍵は恋の形見

登記完了の報告をめぐる違和感

午後四時過ぎ、ようやく一段落ついたところで、登記完了証を封筒に入れてポストへ向かおうとした。 その時だった。サトウさんが、まるで猫がじゃれるように指先で封筒をつつきながら言った。 「この登記、何か変ですね。本人確認書類、旧姓のままですよ」

事務所に届いた一通の封筒

数日前、差出人不明の封筒が事務所に届いた。中身は登記識別情報と古い委任状。 依頼人の名前は記憶にないものだったが、不思議なことに、書式も印字もすべて私の事務所の様式そのもの。 封筒の隅にだけ、小さく「Mより」とだけ書かれていた。

恋人が語った不自然な依頼

その名前に、どこか既視感があった。いや、忘れようとしていただけなのかもしれない。 五年前、私の心を一瞬だけ騒がせた女性。彼女は司法書士でなく、不動産業者でもなく、ただの会社員だった。 でもある日突然、「登記識別情報って、恋人に渡してもいいの?」と真顔で尋ねてきたことがあった。

サトウさんの冷たい観察眼

「シンドウ先生、この字、女の人ですよね。しかも泣きながら書いてる」 サトウさんは、そう断言した。推理漫画の刑事みたいに。 いつもは塩対応なのに、こういう時だけ刑事コロンボばりにしつこい。

過去の登記に潜む共通点

ファイルをひっくり返していくうちに、似たような物件名義変更が過去にも2件あったことがわかった。 どれも所有者の変更直後に、不審な委任状が出されている。しかも代理人の欄には見覚えのある名前が。 「この人、あのときの元カノじゃないですか?」とサトウさん。思わず咳き込んだ。

謎の補正通知と提出ミス

ちょうどそのタイミングで、法務局から補正通知が届いた。「所有権移転の原因が不明確」と。 なんてこった。補正理由欄に「恋人に渡したため」なんて書けるか。 やれやれ、、、サザエさんならここでカツオがしでかしたことにしてごまかせるのに。

所有者変更の影に見える感情

どうもこの一連の登記は、彼女が何かを証明したくてやったような気がしてならない。 恋人に識別情報を預けるという行為は、法的にはともかく、心情的には非常に重たい。 それを「信頼」と呼ぶか「執着」と呼ぶかは、見る人によって違うだろう。

公正証書の名前が語るもの

後日、公証役場で保管されていた古い公正証書遺言を確認する機会があった。 そこには、あの名前とともに、なぜか私の名前も記されていた。 「すべての財産を、わたしの愛したひとへ」――署名欄には、あの小さな筆跡。

元交際相手が語った真実

思い切って連絡を取り、彼女と会うことにした。カフェで出されたコーヒーはやけに苦かった。 彼女は笑いながら言った。「あの登記識別情報は、形見のようなものよ。私たちの」 私はただ、頷くしかなかった。もう法の問題ではなかった。

やれやれと思いながらの聞き取り

「で、最終的にどうするんです?」とサトウさんが訊いた。 「うーん、虚偽の登記というより、恋の遺物って感じだなあ」 「感傷じゃ仕事になりませんよ」――言いながらも、彼女はそっと手帳を閉じた。

自筆証書遺言と登記識別情報

結局、彼女が送ってきた識別情報と委任状は、形式としては無効だった。 ただ、それによって誰かが損をしたわけでもない。すでに登記名義人も故人だった。 つまりこれは、法的判断ではなく、人としての整理の話だった。

偽造されたはずの印鑑と筆跡

最後に、法務局から返送された申請書類を見て、はっとした。 印影が、少しだけ右に傾いていた。彼女がよくやるクセだ。 「これ、やっぱり本人が押したんじゃないですか?」とサトウさん。冷静に、鋭く。

恋と所有権の狭間で

登記という行為は、法律的には一つの事実の記録でしかない。 けれど、そこに心が関わると、厄介な「物語」になってしまう。 彼女が最後に送ってきた「Mより」の文字。それが何を意味していたか、私は深く考えるのをやめた。

真実が明かされた夜の会話

あの夜、最後に交わした言葉が耳に残っている。 「鍵を渡したのは、あなたが最初で最後だった」 それは、所有権の話ではなく、彼女の人生の話だったのかもしれない。

サトウさんの一言で幕引き

「恋人に登記識別情報を渡すなんて、物好きですね」 そう言いながら、サトウさんは冷たくお茶をすすっていた。 私が一言でも反論しようとすると、もう次の書類を差し出してきた。

静かに閉じられるファイルと心

あの案件のファイルは、今、事務所の棚の一番下にある。 手を伸ばすことは、もうないだろう。だけど、たまに気になる夜もある。 誰かの恋が、ひとつの登記として静かに終わったのだから。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓